遠く離れた日本で、<br>安心できる暮らしを<br>送っています。

遠く離れた日本で、
安心できる暮らしを
送っています。

アフリカのコンゴ民主共和国からやって来たマッサンバさんは、ユニクロ銀座店で働いています。

June 2024 No.26

The Power of Clothing

街で途方に暮れていたら、「何か困っているの?」と声をかけられました。

自分の生まれた国で迫害を受け、暮らしていけなくなったら──。ベルギー王国の植民地だったコンゴ民主共和国は、独立後も、内戦などで国情は安定せず、多くの人々が国外に逃れざるをえない状況が続いています。地理と数学の教師だったマッサンバさんが、公務員の知り合いの勧めもあり、ヨーロッパではなく日本を避難先に選んだのは、16年前のことでした。

Photographs by Shinsuke Kamioka

生まれ育ったコンゴ民主共和国を脱出して、飛行機を乗り継いでたどり着いた日本には、親族も知り合いもいませんでした。言葉もわかりません。予約していた銀座のホテルに一泊しましたが、もっと安い宿を見つけ、難民認定申請を急いで行う必要がありました。どこに行って、どんな手続きをすればいいのか何もわからない状態です。2008年のことでしたから、まだスマートフォンは持っていませんでした。

翌朝チェックアウトして、荷物を持ったまま銀座をぐるぐる歩き回っていました。途方に暮れているのがわかったのか、日本人に英語で声をかけられました。「何か困っているの?何か探しているの?」顔を見たら親切そうな人だったので、「国連の難民申請のオフィスがあったら教えてください」と英語で答えました。「わかりました」と言う彼に案内され、彼の会社まで行きました。スタッフと一緒に調べてくれたり、どこかに電話をかけたりしてくれて、「ここに行けばいいと思います」と行き先の住所を書いたメモを手渡されました。「一人で地下鉄に乗って行けそうですか?」「昨日着いたばかりで、何もわかりません」「お金はありますか?」「多少はあります」「じゃあタクシーの運転手さんにここに行きたい、と伝えれば大丈夫です」とタクシーを呼んでくれました。

ユニクロ銀座店のバックヤードでマッサンバさんの話をうかがった。じっと耳を澄ませて相手の話を聞き、穏やかにしゃべる人だった。

ユニクロ銀座店のバックヤードでマッサンバさんの話をうかがった。じっと耳を澄ませて相手の話を聞き、穏やかにしゃべる人だった。

ユニクロ銀座店のスタッフの3割以上が外国籍の持ち主です。働く人の思いはさまざま。

コンゴ民主共和国(外務省データを参照)

アフリカ大陸の中部に位置し、世界で11番目に広い国土を有する。東部の国境には氷河に覆われた高山もあれば、熱帯雨林、高原地帯、広大な盆地もあり、その中央をコンゴ川が流れている。コンゴ川流域にある首都キンシャサは、その人口が東京都とほぼ等しい近代的な都市。独裁政治の終焉後も内戦が続く状況で、UNHCRの調べでは、これまでに800万人を超える難民・国内避難民が生じている。

歴史

20世紀にベルギーの植民地となったが、1960年に独立。独立直後から暗殺やクーデターが続き、国内は内戦状態に。71年にはザイール共和国と改名、97年に現在のコンゴ民主共和国となるが、政治的な安定には至っていない。

経済

世界最貧国のうちに入る状況だが、鉱物資源が豊富である。Mineral Commodity Summaries 2024によると、コバルトは世界1位、銅は世界4位、スズは世界8位の埋蔵量があるとされるが、紛争の資金源になっている側面もあり、利益が国民生活に還元される状況ではない。

文化

民族や言語の多様性と、かつてベルギーの植民地であったヨーロッパの影響、人口の約8割を占めるというキリスト教の影響もあり、コンゴを象徴する文化的シンボルを絞り込むのは難しい。教育制度は十全には機能していない。

「畳の部屋に布団」の和室に驚く

渋谷区の目的地に着いてドルで支払おうとしたら、「ドルは受け取れません」と運転手さんが困った顔になり、私がドルしか持っていないとわかると、近くの銀行まで連れていってくれました。日本円の両替の書類を書いていると、そこでまたアフリカ人に声をかけられたのです。「何か問題でも起こっていますか?」と言うので、それまでの経緯を説明したら、「あなたが訪ねようとしているのは、海外で難民の支援活動をしているところで、難民申請はできないですよ」と教えてくれました。まずはタクシーの運転手さんにお礼を言って支払いをすませ、今度はアフリカ人の彼と一緒に交番まで歩いて行くことになりました。

交番のお巡りさんは親切な人で、「JAR(難民支援協会)に行ったほうがいい」と行き先を教えてくれると、タクシーを呼んでくれました。JARでは入国管理局(現在は出入国在留管理庁)への難民申請手続きの仕組みや方法について教えてくれました。東京の地図など暮らしに必要な情報や、しばらくのあいだ滞在できる宿も提供してくれました。宿に着くと、ベッドのある寝室はなく、畳の上に布団を敷く方法なのだと知って驚きました。畳を見るのは初めてでしたから。こうして見知らぬ人たちに助けられて、日本に着いて二日目の、長い一日が終わりました。

紛争が続く故国から脱出する

私は1975年、コンゴの西部にある都市、ムバンザ・ヌグングで生まれました。首都キンシャサから南西に100キロほど離れたところで、コンゴ大学もあり、10万人が暮らす都市でした。コンゴが植民地であった時代は終わっていましたが、独立後も紛争が続き、暗殺やクーデターが起きて、多くの人が亡くなり、多くの人が国から出ていく厳しい状況が続いていました。

2006年に初めての大統領選挙と議会選挙が行われたのですが、私自身が現政権に異議を唱える政党の応援に加わるうち、身の危険を感じるようになりました。知り合いの公務員から「早く出国しないと君は逮捕される」と告げられたのです。

もともとコンゴ民主共和国はベルギー王国の植民地でしたから、フランス語が公用語です。ヨーロッパ文化にも馴染みがあります。まずはフランスやイギリスの大使館にビザの申請を行おうと考えました。ところが、私と似た境遇の人がビザの申請に殺到して、大使館前には朝の4時から長蛇の列ができていたのです。

いつビザがおりるかわからない状況でした。知り合いの公務員に相談すると、「ビザを待っている時間はもうない。これを持って急いで日本大使館に行きなさい」と言われ、彼が用意してくれた公務用のパスポートを手に、私は日本大使館に急ぎました。ビザはすみやかにおり、すぐに渡航の準備を始めました。

地理と数学の教員だった私には、日本はハイテクの先進国というイメージがありました。でも言葉や文化についてはまったくわからない状態です。ヨーロッパにはアフリカからの難民がたくさんいますが、日本に逃れた人の話は聞いたことがありません。しかしビザがおりたので、この機会を逃すわけにはいかないと判断したのです。

難民が定住し、働くまで。

日本に入国してから難民として認定されるまで、どのような流れになっているのかの一例です。

1. 難民認定申請

入国後、難民認定申請のため出入国在留管理庁へ。所定の書類を提出し、面談を受け、申請する。

2. 難民支援協会(JAR)や
難民事業本部(RHQ)へ

難民認定申請中に生活に困窮している場合には、生活費、居住費、医療費の支援を受けることが可能。

3. 特定活動

期限付き在留資格である「特定活動」を得て、難民認定を待つ。

4. 難民認定

難民認定が得られれば、定住就労が可能になる。RHQは、難民認定者に対し、日本語学習、生活ガイダンス、就労相談を含む定住支援プログラムを提供。

5. 就職

日本の労働慣行などをよく知り、語学習得も続けながら就職活動を行う。難民認定を受けた人の採用を積極的に行う企業はまだ一部に限られるのが現状。

フランス風チキンソテーがきっかけに

日本での仮の暮らしが始まり、JARでは申請書類の書き方も丁寧に教えてくれました。すべてを整え、入国管理局に申請に行ったのですが、難民申請は容易ではありませんでした。問題になったのは、私の公務用パスポートでした。本名を使うと、出国審査の段階で身柄を拘束される可能性があったため、本名ではなく、政権で多数を占める部族で一般的な名前が使われていました。ビザがすぐに発行されたのも、公務で日本に行く種類のビザを申請したからでした。

入国管理局としては、いかなる事情があるにせよ、パスポートに本名を使わないのは法に反するので、これでは難民申請は通らないと言われました。難民申請は却下され、外国人登録証明書だけが発行されました。ただし、この証明書では働くことはできません。難民申請が通らなかったものの、日本で生きてゆくために一歩でも前進する必要がありました。RHQ(難民事業本部)に足を運び、日本語教室を紹介してもらい、さまざまな支援を受けることになりました。

RHQで紹介されたのは、外国籍の労働者、移民や難民の支援をしている「カラバオの会」でした。日本語教室ばかりでなく、日本社会を理解するための講習会なども開かれていたので、熱心に通いました。「カラバオの会」にはそれから長い間、さまざまなかたちで支援を受けることになり、感謝の気持ちでいっぱいです。

私はフランス語はできますが、英語は得意ではありません。ただ、支援者の方々とは英語でコミュニケーションをとっていました。自分の英語力では、コンゴの複雑な政治情勢や悲惨な内戦、自分の立場などをうまく伝えることができないままでした。

ある時、移民や難民、支援者の人たち、地域の方々との交流を目的とした「カラバオの会」のお祭りがありました。売店で料理をだして、活動資金にあてる、という目的もあり、私はコンゴで好物だったフランス風チキンソテーの調理を担当しました。すると、日本の大学の先生がそれを食べながら「懐かしい味だなあ」とおっしゃったんです。フランスにいた頃、食べていた料理だったらしい。「あなたフランス語できるの?」と聞かれて、フランス語で話し始めました。先生はコンゴの状況も私の出国の理由もよく理解してくださり、「カラバオの会」に私の事情を正確に伝えてくださいました。それがきっかけとなり、会のみなさんは私が難民として認定されるべきだと支援をさらに強化してくれて、最後には弁護士を立て、裁判で決着をつけよう、ということになったのでした。

裁判に勝訴して、難民認定がおりたときは、日本に来てから7年の歳月が過ぎていました。この7年を手短にお話しするのはとても難しい。今こうしてユニクロ銀座店で働いている安心と、これからのことを考える前向きな気持ちを大事にしたいです。

子どもは2人います。4歳の男の子と7ヶ月の男の子です。子育てはなかなか大変(笑)。残念ながらふたりともコンゴの国を知らないまま日本で大きくなっています。長男はコンゴの言葉であるリンガラ語、それから英語、日本語、フランス語の4ヶ国語を話します。いちばんよくしゃべるのは英語なんです。お気に入りのアニメが英語なので、その影響だと思います。妻が楽なのはフランス語。英語のヒアリングは問題ないのですが、話すのはちょっと苦手のようです。

コンゴ民主共和国の首都であるキンシャサではリンガラ語が共通語です。東部ではスワヒリ語、西部ではキコンゴ語、中南部ではチルバ語が使われています。言葉はだいたいこの4つですが、部族を数えると、450もの異なる部族がいます。そのなかでリンガラ語はだいたいどこでも通じると思います。

リンガラ語の教科書は手元にないので、私と妻が毎日リンガラ語で話しかけるようにしています。テキストがなくても、言葉は覚えるし、使えるようになります。子どもたちにリンガラ語を身につけてほしいのは、いつかコンゴに帰る日がくる、と考えているからです。

コンゴのことで忘れられないのは気候ですね。私が生まれた西部は、海に面したサバナ気候ですから、日本の秋のような天気がつづいて、涼しく過ごしやすいのです。15世紀にポルトガル人が初めてコンゴ王国にやってきたのも、この海に面した西部地域でした。16世紀になるまでは奴隷貿易もなく、比較的対等な交易が行われていたようです。しかし16世紀に入るとヨーロッパに侵略され、コンゴは苦難の道を歩み始めます。

日本での仮の暮らしが始まり、JARでは申請書類の書き方も丁寧に教えてくれました。すべてを整え、入国管理局に申請に行ったのですが、難民申請は容易ではありませんでした。問題になったのは、私の公務用パスポートでした。本名を使うと、出国審査の段階で身柄を拘束される可能性があったため、本名ではなく、政権で多数を占める部族で一般的な名前が使われていました。ビザがすぐに発行されたのも、公務で日本に行く種類のビザを申請したからでした。

入国管理局としては、いかなる事情があるにせよ、パスポートに本名を使わないのは法に反するので、これでは難民申請は通らないと言われました。難民申請は却下され、外国人登録証明書だけが発行されました。ただし、この証明書では働くことはできません。難民申請が通らなかったものの、日本で生きてゆくために一歩でも前進する必要がありました。RHQ(難民事業本部)に足を運び、日本語教室を紹介してもらい、さまざまな支援を受けることになりました。

RHQで紹介されたのは、外国籍の労働者、移民や難民の支援をしている「カラバオの会」でした。日本語教室ばかりでなく、日本社会を理解するための講習会なども開かれていたので、熱心に通いました。「カラバオの会」にはそれから長い間、さまざまなかたちで支援を受けることになり、感謝の気持ちでいっぱいです。

品出し、裾上げなど何でも行う。ユニクロ銀座店メンズフロアで。

私はフランス語はできますが、英語は得意ではありません。ただ、支援者の方々とは英語でコミュニケーションをとっていました。自分の英語力では、コンゴの複雑な政治情勢や悲惨な内戦、自分の立場などをうまく伝えることができないままでした。

ある時、移民や難民、支援者の人たち、地域の方々との交流を目的とした「カラバオの会」のお祭りがありました。売店で料理をだして、活動資金にあてる、という目的もあり、私はコンゴで好物だったフランス風チキンソテーの調理を担当しました。すると、日本の大学の先生がそれを食べながら「懐かしい味だなあ」とおっしゃったんです。フランスにいた頃、食べていた料理だったらしい。「あなたフランス語できるの?」と聞かれて、フランス語で話し始めました。先生はコンゴの状況も私の出国の理由もよく理解してくださり、「カラバオの会」に私の事情を正確に伝えてくださいました。それがきっかけとなり、会のみなさんは私が難民として認定されるべきだと支援をさらに強化してくれて、最後には弁護士を立て、裁判で決着をつけよう、ということになったのでした。

裁判に勝訴して、難民認定がおりたときは、日本に来てから7年の歳月が過ぎていました。この7年を手短にお話しするのはとても難しい。今こうしてユニクロ銀座店で働いている安心と、これからのことを考える前向きな気持ちを大事にしたいです。

子どもは2人います。4歳の男の子と7ヶ月の男の子です。子育てはなかなか大変(笑)。残念ながらふたりともコンゴの国を知らないまま日本で大きくなっています。長男はコンゴの言葉であるリンガラ語、それから英語、日本語、フランス語の4ヶ国語を話します。いちばんよくしゃべるのは英語なんです。お気に入りのアニメが英語なので、その影響だと思います。妻が楽なのはフランス語。英語のヒアリングは問題ないのですが、話すのはちょっと苦手のようです。

コンゴ民主共和国の首都であるキンシャサではリンガラ語が共通語です。東部ではスワヒリ語、西部ではキコンゴ語、中南部ではチルバ語が使われています。言葉はだいたいこの4つですが、部族を数えると、450もの異なる部族がいます。そのなかでリンガラ語はだいたいどこでも通じると思います。

リンガラ語の教科書は手元にないので、私と妻が毎日リンガラ語で話しかけるようにしています。テキストがなくても、言葉は覚えるし、使えるようになります。子どもたちにリンガラ語を身につけてほしいのは、いつかコンゴに帰る日がくる、と考えているからです。

コンゴのことで忘れられないのは気候ですね。私が生まれた西部は、海に面したサバナ気候ですから、日本の秋のような天気がつづいて、涼しく過ごしやすいのです。15世紀にポルトガル人が初めてコンゴ王国にやってきたのも、この海に面した西部地域でした。16世紀になるまでは奴隷貿易もなく、比較的対等な交易が行われていたようです。しかし16世紀に入るとヨーロッパに侵略され、コンゴは苦難の道を歩み始めます。

品出し、裾上げなど何でも行う。ユニクロ銀座店メンズフロアで。

品出し、裾上げなど何でも行う。ユニクロ銀座店メンズフロアで。

携帯と財布の入っている鞄

日本の好きなところは、静かなことですね。バスに乗っていても、電車に乗っていても、乗客同士があまりおしゃべりをせず、静かに乗っているのがありがたいです。コンゴではバスも電車もみんな夢中になってしゃべっていて、とてもうるさい(笑)。

驚いたのは忘れ物が返ってきたことです。以前、携帯と財布の入っている鞄を電車に置き忘れてしまった。気がついてすぐ駅のスタッフに問い合わせたり、必死で探したのですが、すぐには見つかりませんでした。その後、もう一度、遺失物センターに問い合わせたら、私の鞄が届けられているとわかりました。

引き取りにいったら、鞄のなかの携帯も財布も両方とも無事で、鞄から抜き取られたものは何ひとつありませんでした。ほんとうに驚きました。届けてくださった方に感謝のほかありません。コンゴで同じ忘れ物をしたら、まず何も出てこないですし、鞄がどこかで見つかっても、携帯も財布もなくなっていたでしょう。

宙ぶらりんで不安な難民を支援したい

ユニクロ銀座店で働きはじめたのは2017年です。

それから約7年が経ちました。今は8階、9階、10階のメンズフロアが担当です。レジもやりますし、フィッティングルームでもお客様の対応をしますし、品出しや売り場の管理もしています。海外からのお客様もとても多いですし、忙しいですが、とても充実しています。

コンゴから妻を呼び寄せることもできました。日本で子どもがふたり生まれました。なんといっても、自分の家族の安定と安心を得ることができたのは、こうして働くことができたからです。ほとんどアクシデントのように日本にやってきたのですが、穏やかで静かな国でほんとうによかったと思っています。

今は、自分と似たような立場にある難民の支援ができたらと考えています。とりわけ申請中の難民は、自分がいったいどうなるのか、宙ぶらりんの立場で不安な日々を送ることになります。そうした人々を励ましたり、サポートできたら、自分が受けた厚意へのお礼がわりになるかもしれません。私が日本に来たばかりの頃とちがって、今はアフリカ人のコミュニティ、コンゴ人のコミュニティがあります。そうした横のつながりも、サポートに活かしていけるはずです。

コンゴの情勢については、毎日かならずインターネットで確認しています。将来、民主的な国家として正常化され、安定するようになったら、家族とともに帰国したい。その日が来ることを願っています。

ユニクロ銀座店12階のUNIQLO COFFEEとユニクロ銀座店の鈴らん通り側1階にあるUNIQLO FLOWER
ユニクロ銀座店12階のUNIQLO COFFEEとユニクロ銀座店の鈴らん通り側1階にあるUNIQLO FLOWER

ユニクロ銀座店12階のUNIQLO COFFEEとユニクロ銀座店の鈴らん通り側1階にあるUNIQLO FLOWER

難民の方々を店舗のスタッフとして雇用するユニクロの「RISEプログラム」とは。

ユニクロは服の会社としてできることを考え、店頭にあるリサイクルボックスでお客様から服をお預かりし、再利用できるものを選び、世界各地の難民キャンプでの必要に応じて寄贈する衣料支援活動を行ってきました。これまでに、80の国や地域に5,463万点が寄贈されています(2023年8月までの累計)。

2011年からは「RISE(Refugee Inclusion Supporting and Empowerment)プログラム」をスタートさせました。難民の方々を店舗のスタッフとして採用し、働いていただくプログラムです。難民が避難先で安定した生活を送るには、雇用機会を提供することが重要だと考えています。

NPOなどの協力を得ながら、当社で面接を行い、入社が決まった難民の方には、ユニクロの企業理念から接客の方法、ユニクロ店舗で働くために必要な日本語(海外であれば現地の共通語)を、年数回に分けた語学研修を通じてさらに学んでいただく環境を用意しています。

こうした研修は難民のスタッフだけでなく、彼らを指導する立場にある店長やトレーナー、スタッフに対しても、難民との相互理解を深めるために行われています。

2024年4月時点で、国内のユニクロ33店舗で46人の難民のスタッフが働いています。米国や欧州の店舗や、グループ会社にも広がっています。出身地域や属性にかかわらず、同じ場所で働くスタッフとして、協力し合える関係こそが重要であると考え、これからも継続して取り組んでいきます。

難民の方々にユニクロの一員として働いてもらうことは、ユニクロ社内にダイバーシティ(多様性)の理念を日常的に浸透させることにもつながっています。

日本で働き、暮らしていくためには?難民事業本部(RHQ)で行っていること。

難民事業本部(Refugee Assistance Headquarters)は、日本政府がインドシナ(ベトナム、カンボジア、ラオス)難民の受け入れを決定したことを受け、1979年に設立された組織です。政府の委託によって、難民、避難民、難民認定申請者の定住に向けたさまざまな支援を行っています。

日本に入国して難民認定申請を行った方が認定を待つあいだ、自己資金のない方については、最低限の生活費と住居費、医療費の支給を原則として4ヶ月行っています。期限の延長については、病気にかかっている、幼い子どもがいる、などの個別の事情には可能な限り対応しています。

難民認定の申請中に、多くの方々は2ヶ月や3ヶ月といった期限付きの在留資格「特定活動」を得ますが、就労資格付きの中長期の「特定活動」を得るには1年近く待たないといけない場合があります。就労資格がないと自由に働くのが困難であるため、この期間が難民認定申請者の方々にとっていちばん厳しい時期となります。

難民認定を得られた方々には、ご本人の希望があればRHQが用意した定住支援プログラムが提供されます。昼間のコースでは6ヶ月、夜間コースでは1年をかけ、基本的な日本語の学習と日本での生活のガイダンスが受けられます。通所が困難な方には、教室に比較的通いやすい地域にある住居が提供される場合もあります。

生活のガイダンスでは、子どもの保育、就学に向けた準備や、地域によって異なるゴミ出しのルールなどについても学びます。また、この期間は就労先を見つけるためのサポートも行います。RHQは企業や地域の商工会議所などに難民採用への働きかけを継続して行っています。

以前はアジアからの難民が大多数でしたが、近年は中東やアフリカ諸国からの難民も増えています。難民認定を受けて定住支援プログラムに入る方々のなかには、大学や大学院を出た高学歴の方も多く、就労希望先の職種も多様なものになっています。職種とのマッチングの幅を広げ、文化、宗教、生活習慣など、背景の異なる方々にも開かれた社会をつくってゆくことが重要です。何より大事なのは、お互いをよく理解しあうことだと思います。

ユニクロ銀座店のスタッフの3割以上が外国籍の持ち主です。
働く人の思いはさまざま。

ユニクロ銀座店は鈴らん通り側にはフラワーショップが、12階にはカフェもあり、フロアごとに雰囲気が変わります。
スタッフのひとり、ティダーさんはミャンマーからの難民です。

ティダーさんは、ウィメンズフロアの担当。このときは「UTme!」のコーナーでオリジナルTシャツをつくりたいお客様に丁寧に説明中。

ティダーさんは、ウィメンズフロアの担当。このときは「UTme!」のコーナーでオリジナルTシャツをつくりたいお客様に丁寧に説明中。

ティダーさんは、ウィメンズフロアの担当。このときは「UTme!」のコーナーでオリジナルTシャツをつくりたいお客様に丁寧に説明中。

銀座4丁目交差点から徒歩数分。銀座6丁目にあるユニクロ銀座店は、320名のスタッフのうち3割強、110名が海外出身(2024年3月現在)で、そのうち3名がRISEプログラムによる採用だという。

平日の午後3時すぎ、ユニクロ銀座店の1階から12階まで各フロアを歩き回っていると、すれちがう人の9割くらいが海外からの方々ではないかと感じる。外国籍かと思われるスタッフも目につく。

フロアごとにレイアウトや飾りつけが変わり、店内には自然光も入り、巡っているだけでも楽しい。壁際にソファが並んだ簡易なカフェが最上階12階にある。買い物の途中でひと息ついている海外からのお客様だろう。銀座というよりニューヨーク?のような空気感。

お客様に応対するスタッフの声に耳を傾けてみると、英語はもちろん、複数の言語が聞こえてくる。通い慣れたお客様の様子や、スタッフの丁寧な接客が、店内をおだやかな雰囲気にしている。

お気に入りの写真やイラストなどを使ってオリジナルTシャツやトートバッグをオーダーできるサービス「UTme!」のコーナーが5階にあり、カウンターで多くのお客様の案内や対応をしているスタッフのティダーさんも、RISEプログラムで採用されたひとりだ。

難民申請したものの、認定はされず

ティダーさんがミャンマーから日本に逃れて来たのは2007年のこと。

ミャンマーは19世紀後半からイギリスの植民地になった。第二次世界大戦期には日本に占領されていた時期もある。終戦後、1948年にはビルマ連邦共和国として独立した(1989年、軍事政権はビルマ連邦からミャンマー連邦と国名を改めている)。

ミャンマーではクーデターや紛争が繰り返され、軍事独裁政権による支配が今も続いている。とりわけ国内での弾圧や武力衝突が激しさを増した2021年以降、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の調べでは、推定6万1700人以上が難民となって隣国などへ逃れ、推定290万人以上が国内で避難を強いられている状況だ。

2007年、軍事政権が市民のデモを制圧するなか、身の危険を感じるようになったティダーさんは、すでに難民として日本で暮らしていた姉と義兄に連絡を取り、ひとりミャンマーを出国した。

無事日本に着いて、入国管理局(当時)に難民申請をしたが、認定はされなかった。与えられたのは、「特定活動」の在留資格のみ。法務大臣が認定した範囲の仕事に就くことが許可される資格は最短3ヶ月、最長でも5年の期限がついている。ティダーさんの場合、期限は6ヶ月だった。期限前に入国管理局に出頭し、面談を受け、事情が認められれば延長が可能となる。

ティダーさんが得た「特定活動」の資格は、半年ごとの期限が何度か更新された。その後、認定期間は1年ごとに延長。難民として定住者の資格を得られたのは、入国からじつに6年目のことだった。

その間、ティダーさんはハンバーガーショップや焼鳥店など飲食店でアルバイトをした。最初のうちは、読めない日本語のメニューを覚え、注文を間違えずに聞き取るのが大変だった。お客様とやりとりしながら、日本で暮らし、働くためのベースになるのはなにより言葉の習熟だと切実に感じた。知り合いに相談し、社会福祉法人「さぽうと21」(難民などの自立支援を行う団体)を紹介された。そこで運営されている日本語学校に通い始め、必死になって日本語を勉強した。

12階での朝礼。この日は朝礼ののち、勤続10年のスタッフを表彰するカジュアルな式が行われていた。

12階での朝礼。この日は朝礼ののち、勤続10年のスタッフを表彰するカジュアルな式が行われていた。

日本語学校の先生から
ユニクロを勧められる

手探りの日々のなか、ミャンマーに残した母が病気になったと知らせが届いた。医療費を送金しなければならない事態となり、しばらくのあいだ経済的にも厳しい日々が続いた。収入の安定した、ゆとりのある暮らしを強く求めるようになったのは、この頃だった。

ある日、日本語学校の先生から「ティダーさん、ユニクロで働きたくはないですか?」と声をかけられた。ファッションは好きだったし、仕事としても興味があった。先生が日本語の上達を評価して、そう言ってくれたのかもしれないと思い、ティダーさんは喜んだ。さっそく履歴書や申請書の書き方を「さぽうと21」のスタッフに聞きながら書類をまとめ、提出した。

こうして、ユニクロで行われているRISEプログラムでの採用が決まったティダーさんは、ユニクロの本部に行き、日本語のレベルを判定してくれる先生の面接を受け、RISEプログラムに用意された語学研修を受けながら働くことになった。安堵と緊張が両方やってきたのを、ティダーさんはよく覚えている。

ユニクロでの難民雇用は2011年からスタートしている。会社にも店舗にもスタッフにも、歳月を経て得た蓄積がある。個々の経験はさまざまであることを配慮しながらも特別扱いしすぎず、他のスタッフと変わらないコミュニケーションをとりながら同じように働いてもらえたら──これが基本的な考え方になっている。

ユニクロでは20年以上前から、障がい者雇用も継続的に行っている。こちらもほぼ同じ考え方で進められているといえるだろう。スタッフ間での配慮や協力が最終的には店舗の力となり、コミュニケーションが向上し、その結果として店舗の質も実績も上昇してゆく──この考え方が広く共有されている。

日本に帰化し、
いつか自分の店を持ちたい

ティダーさんが配属されたのは銀座店だった。

店のバックヤードに案内されると、要所に掲示されている日本語が、語学研修途上の外国籍の人でも困らないよう、ひらがなや英語も併記されているとわかる。同じ難民支援で採用されているスタッフが複数いることも安心材料だった。そしてなにより、好きだった服の仕事に就くことができるのがうれしかったという。

最初に戸惑ったのは、見た目で日本人だと思われ、話しかけられるのが意外と多いことだった。通じるという前提で早口で話しかけられると、聞き取れない場合がある。「すみません、もう一度お願いします」と聞き返すと、首からさげているティダーさんのネームカードに目がいって、「あ、日本人じゃないのか」と気づき、今度はゆっくり話してくれるようになる。そのやりとりを申し訳なく思いながらも、かならずしも嫌なことではなく、ペースを変えてくれるお客様の配慮をティダーさんはありがたく感じている。

朝礼で話されていることも、当初は2割くらいしかわからなかった。それでも同僚に声をかけて質問し、確認すれば問題なかった。どんな場合も質問をすれば、なんとか理解できる。その自信もついた。

勉強になることもある。プラスチックゴミを減らすことの意味、服のリサイクルを行い、まだ着ることのできる服を世界各地の難民に送る重要性。ユニクロが力を入れているサステナビリティ活動について、銀座店で働きながら具体的に学べてよかったと思う。

ティダーさんがいま考えているのは日本への帰化だ。ミャンマーのニュースは毎日チェックしているが、状況が好転する気配はない。銀座店のスタッフも優しく、働きがいがある。日本での暮らしにもだいぶ慣れ、生活も安定した。そして、いつか自分自身の小さな店を持ち、服を売る仕事ができたら──そんな夢を思い描くとき、帰化への気持ちが一層ふくらんでゆくようだ。

幸田勇紀さん

幸田勇紀さん

ユニクロ銀座店店長

差があって当然という環境のベースにある姿勢は、つねにポジティブであるように

銀座店には130以上の国々から、お客様がいらっしゃいます。私自身も銀座店の前はニューヨークで店長を4年経験しました。スタッフは南米系、中国系、ヨーロッパ系、アジア系、アフリカ系と多様です。標準語的な英語を求められるというよりも、差があって当然という環境ですし、根っこにあるマインドがポジティブなので、言葉の壁が障害だとはお互いにあまり思わないんですね。日本に帰ってきて感じるのは、ちょっとした違いでも認めないようなムードがあることでしょうか。前向きの批判はあっていいと思うんです。ベースにある姿勢がポジティブであるほうが、いい方向に修正しやすいのではないか。そう思いながらやっています。

永井孝耶さん

永井孝耶さん

ユニクロ銀座店店長代行

国籍などの属性を意識せずにいられるグローバルな空間でありたいですね

銀座店のスタッフは320名、そのうちの3割以上が海外の出身です。日本語、英語、中国語のほか、出勤のシフトにもよりますが、韓国語、フランス語、ロシア語、タイ語、モンゴル語、ベトナム語などの対応が可能です。最近はスマホの翻訳アプリをお使いになるお客様も増えていますから、言語のハードルはだいぶ下がりました。ユニクロのサービスの基本は、自由にお買い物を楽しんでいただく「ヘルプユアセルフ」です。お客様の必要に応じた親切丁寧なサービスを心がけ、スタッフもお客様も、国籍などの属性を意識せずにいられるグローバルな空間でありたいですね。そうすることで店の風通しがよくなって店の居心地がよくなると信じています。

ユニクロ銀座店の
スタッフからひと言

カヨさん(日本)

カヨさん(日本)

自分が成長できる場所だなと思っています。妊娠7ヶ月でも生き生きと働くことのできる職場に感謝です。

ジェラルドさん(フィリピン)

ジェラルドさん(フィリピン)

自分が得意とする英語やフィリピン語で接客する機会が多くあるので、毎日働くよろこびを感じています。

ナタリアさん(ロシア)

ナタリアさん(ロシア)

新宿の店舗から銀座に移って1年ちょっとになります。いろんな国のお客様がいらっしゃるのが楽しいです。

アヤカさん(日本)

アヤカさん(日本)

多様な国籍のスタッフと日常的にコミュニケーションをとり、サポートできることにやりがいを感じます。

サシトーンさん(タイ)

サシトーンさん(タイ)

タイ語が聞こえたら、こちらからお声をおかけすることもあります。もっともっと成長したいと思います。

リンさん(中国)

リンさん(中国)

子どもが3人います。仕事と子育てが両立できるよう頑張っています。売り場を魅力的にしたいですね。

ユイコさん(日本)

ユイコさん(日本)

お客様はもちろんなのですが、働くスタッフも楽しいと思える環境をつくっていきたいと思っています。

店長、トレーナー、ベテランスタッフ、RISEスタッフ……立場はそれぞれだが、空気感は同じものを共有している。

店長、トレーナー、ベテランスタッフ、RISEスタッフ……立場はそれぞれだが、空気感は同じものを共有している。

ユニクロ 銀座店

住所:

東京都中央区銀座6-9-5 ギンザコマツ東館1-12階

営業時間:

11時〜21時

取扱商品:

ウィメンズ、メンズ、キッズ、ベビー、マタニティ

アクセス:

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人間としての尊厳を保ち、お互いに歩み寄り、支え合う。

人間としての尊厳を保ち、お互いに歩み寄り、支え合う。

伊藤礼樹さん

UNHCR駐日代表

UNHCR駐日代表

UNHCRは第二次世界大戦終結後の、ヨーロッパで生じた難民の救済と解決を目的につくられた組織です。それから70年以上が経つうちに、難民をめぐる状況は大きく変化しています。紛争や迫害、暴力、人権侵害などによって、故郷を追われる人々は全世界で1億1000万人にもおよんでいます。

いっぽう、受け入れる側をみると、難民に対して寛容であろうとする価値観に、揺さぶりがかけられています。21世紀に入り、国際的協調よりも自国を優先する一国主義が目につきはじめました。難民支援に物心両面で大きな役割を果たしてきた国であっても、近年は余裕のある対応が難しくなる場面が見られます。難民が国内の対立を生み、分断をひき起こす要因になりかねない──そんな懸念や不安の表明がしきりに耳に入ってきます。

日本では「難民」という言葉を聞くと、かわいそうだと思うけれど自分に何ができるわけでもない、ハードルの高い話、と考える方がまだ多いのではないかと想像します。「内戦」とか「政治」といった言葉を耳にすると、あまり近寄らないほうがいい、と考えてしまう方もいらっしゃるかもしれません。

戦後の日本では、内戦のような事態に陥ったことはありません。しかし、大地震のような自然災害で突然家を失い、避難先で厳しい生活を送る可能性は誰にでもある。その気持ちはお持ちだと思います。

難民もまた、普通の暮らしをしていた人々が、突然それまでの生活を奪われ、故郷を去らねばならなくなった人々である、という意味では、大きな違いはないのかもしれない──そのように想像していただくことも、難民への理解につながると思います。

人間としての尊厳を保ち、お互いに歩み寄り、支え合う。

私たちUNHCRは人道援助機関として、内戦のような事態に陥った当事国、あるいはその隣国に入って、すみやかに難民支援活動を行います。

しかし、そこですべてが解決するわけではありません。避難先で、故郷に戻ることができない状況になったとき、新たな生活を求め、言語も文化も異なる場所を目指す場合には、その国が難民を受け入れること、さらにはそこでの新たな暮らしのため、国はもちろんのこと、自治体も受け入れのための方策を立て、知識や経験を持つ専門の組織がサポートしなければ、難民はたちまち孤立し、暮らしてゆくことができなくなります。国ばかりでなく、社会全体で難民をサポートしなければ、難民の安定的な未来は成り立ってゆかないのです。

私がいま期待しているのは、民間の力です。ユニクロが行っている「RISEプログラム」のような難民の自立支援が、もっと多くの企業に広がっていってほしい。難民のみなさんが言語や文化、生活習慣を学び、自立し、その地域のコミュニティに積極的に入って社会の一員としてコミュニティの向上に寄与してゆく──その土台づくりです。お互いを理解しながら、お互いに発展してゆくよろこびは、想像以上の何かを生むはずです。

「難民」という言葉は、働きはじめてコミュニティに居場所を得られたら、不要になるものだと思います。人間としての尊厳を保ち、お互いに歩み寄り、支え合う。能力を存分に発揮してもらえれば、かならずコミュニティの底上げにもなってゆくはずです。

私たち自身が持続可能な社会の一員として向上してゆくためにも、難民を受け入れる社会の仕組みを、さらに確かなものにしていきたい。ぜひ、みなさんのお力を貸していただきたいと思います。

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