プレスリリース

2006年10月05日

BACKSTAGE REPORT ユニクロ ソーホー ニューヨーク店 中村勇吾 ~「考える人」2006年秋号~

~「考える人」2006年秋号(新潮社)より転載~

建築家の夢とウェブデザイン

20061004_4.jpgグローバル旗艦店

ユニクロ ソーホー ニューヨーク店

中村 勇吾 (Nakamura Yugo)

子どもの頃は理科工作が好きでしたね。乾電池を死ぬほどつなげて電気流したらどれくらいビリビリくるか(笑)なんて、しようもないことやってました。コンピュータと出会ったのは、五年生のときです。本屋で立ち読みしてたら、NECのPC8001なんていうマイコン(当時はパソコンではなくマイコンと呼ばれていた)が二十万円ぐらいで買えるのがわかった。これはスゲエと驚いて、「コレ買ってコレ買って」と親にせがみました。親は「中学に合格したら買ってやる」。第一次受験ブームで塾通いもしていましたから、まあとにかく勉強して、灘中学に合格して、約束通り買ってもらいました

 当時のコンピュータ雑誌にはブロック崩しとかインベーダーゲームのプログラムが載っていて、これを意味もわからず三、四日かけて自分のマイコンに打ち込んでいくと、ゲームが再現できた。フロッピーすらまだない時代です。。そのままコンピュータにのめりこんだか、というと実はそうでもなくて、まもなくファミコンが出てくるし、20061004_1.jpg自分で何日もかけてゲームを写すなんて面倒くさいことやってらんないし、それに中学高校時代はどちらかと言えば体育会系だったので、あれだけせがんだマイコンもすぐにほっぽらかしになってしまいました。それよりも部活のバレーボールが好きでしたね。あんまりトレーニングしなくても身長だけである程度出来ちゃうスポーツでしょ(笑)。そもそも灘中は運動部に入るヤツが少ないから、入部して一週間後にはもう試合に出てた。ぼくは背が高いからアタッカー。灘中のバレーボール部員は部員が少ないので試合経験だけは豊富だから「経験で勝つ」みたいな感じでしたね。敵のセッターをネット越しにいじめる心理戦も得意(笑)。神戸市は当時、公立中学が全員丸坊主の時代でしたから、ぼくらだけ髪が長いから逆に他校から迫害された。でも灘中は案外強くて、神戸市で準優勝したりしてました。

建築家になるなら東大へ

 高校二年のとき、洋書でガウディの写真集を見てビックリ。建築って面白いと思ったんです。たしか値段が二万円ぐらいしたので、何度も書店に通って立ち読みしましたね。大学は建築学科にしようって思うようになった。気になる建築家の出身校を調べたら、磯崎新さんをはじめ東大工学部の建築学科が多い。それならば東大の理科Ⅰ類を目指そうということになったわけです。大学に行かず独学で建築家になった安藤忠雄さんが実は凄い、とも思ってたんですけどね。

 合格した途端、教養課程の一年目は全然勉強しなかった。近所のレンタルビデオ屋でB級映画を借りまくって見たり、麻雀やったり。灘高時代からの友人もいましたけど、志の低い同士のつどいでした(笑)。同級生には法学部行って大蔵省入って明日の日本を引っ張って行く、と真面目に勉強するやつもいるし、医学部で勉強して「国境なき医師団」に入ると決めているヤツもいた。でもぼくらは「何だそれ?」って何の根拠もない批判をしながら麻雀してる、そういうしょうもない連中だったんです。ところが建築学科は人気があったので、一年でこんな成績だったらとてもじゃないけど行けそうにない。そう気がついて親にも黙って留年して、二年目は真面目にやろうとしたんですけど、量子力学の講義なんかきいても、あ、駄目だ、わかんねえ(笑)。結局、相変わらず授業にはあまり出ない日が続きました。

 建築学科の隣にあったのが土木工学科です。ここは名前のせいか人気がない。コルビュジエもやっていたような都市計画も勉強できる、と思って卒業名簿を見ると、建設省に入って建設官僚になって実際の都市計画に携わっている人達も多くいて、理系の官僚、というのも新鮮に感じた。だんだんその気になって土木工学科に進んでわかったのは、日本にはそもそも僕が勝手に想像していた都市計画というものは存在しないに等しいということでした。そもそも現実の都市計画というものは、畳何畳分もの都市の模型をドーンと作って上空から見下ろしてああだこうだ言うんじゃなくて、建築上の法規を作ってそれで街を数十年単位でコントロールしていく、という地道な仕事の積み重ねなんですね。その一方で、高度経済成長期につくられた東京の首都高のような無粋なものを反省して、土木の世界にデザイン意識や景観意識を導入しようという動きも出始めていた。土木工学科にある篠原修教授の景観研究室がそんなことをやっていたわけです。ぼくはそこに入れてもらうことにしたんです。

 道路やトンネルや橋のデザインを考え直すとか、景観行政の問題とか、江戸の都市の構造や風景はどうだったのかとか、始めてみるとこれが実に面白い。夜景といえば神戸や函館が有名ですけど、あれはもともとある風景を六甲山や函館山の絶妙な高さ、ポイントから見下ろしたときに成立するものなんですね。風景というのは場所と場所の関係性から生み出される。考えてみれば当たり前のことですけど、大学に入って初めて、知的におもしろいものに出会ったと感じましたね。住宅を設計して、インテリアをどうするかという規模ではなく、地形と向き合うスケールの仕事がしたい、と考えるようになりました。

 大学院を出た後は、瀬戸大橋をつくるような橋の設計会社に就職しました。高速道路や橋というのは何よりもまず構造計算やエンジニアリングなんです。これがしっかりしてないとお話にならない。その上で美しいものが作れるかどうか。日本の橋は品質感とかは世界でトップクラスかもしれないけれど、構造技術と一体となった美しさという点ではスイスがなんと言っても聖地なんですね。峡谷の多い国だから橋も多い。20061004_2.jpg一九二〇年代に活躍したロベール・マイヤールは、その神のような存在です。丹下健三さんの代々木体育館も構造的には吊り橋と一緒なんですね。建物を支えるタワーが立っていて、そこから螺旋状にケーブルが伸び床を全部吊っている。構造と形が完全に調和した美しさ。ぼくも橋でそういう仕事がしたいと思いました。

 入社して三年目ぐらいのとき、もうそろそろ下働きじゃなくてオレにやらせてくださいというオーラを出しまくって、ある橋の仕事を任されたんです。ところが設計を始めて五ヶ月たったとき、計算違いに気がついた。間違ったのは最初の一ヶ月目ぐらいのところです。つまり四ヶ月間ずっと間違った前提で設計を続けていた。四ヶ月分のやり直しです。ミスがあれば人命にかかわるプレッシャーに潰されそうになりながら、会社で吐いたりしながら、ほぼゼロからやり直しましたね。

超面白いコンピュータ

 大学三年のとき、景観研究室のコンピュータにびっくりしたんです。高校時代に見ていたパソコンからもの凄く進化していた。フォトショップなんかの遊べるソフトも入っていて画面は何万色。久しぶりにハマって自分でもマックのセントリス650を買いました。その頃、SATORIというスクリーンセイバーがあって、コンピュータが勝手にフラクタルな図形をグニャグニャと描いていく。これを見たのがきっかけで、コンピュータのグラフィックの世界を探索するうちに、ジョン前田さんというアーティストが作ったものにも突き当たった。マウスを動かすと画面上に並んでいるタイポグラフィがフッと崩れたりポーンと飛んでいったりする。ウワッこれは面白いって。コンピュータが一方通行じゃなく双方向、インタラクティブで動くわけです。コンピュータという素材の面白さというか、本質というか、そういうものを感じて衝撃を受けた。でもこの世界は超マニアックで、ジョン前田さんのCD-ROMはたぶん、当時はそんなに売れなかったはずです。

 ぼくは割と現実的な人間だから、こういった種類の創作が仕事になるとは想像もしなかった。だから大学院に進んで、会社に入っても、自分の趣味の範囲でやっていたわけです。

 そうこうしているうちに、九〇年代の後半、第一次ネットバブルが盛り上がり始めると、僕の興味と同じようなことをマニアックにやってた連中がそれを仕事にしてる様子が見えてきたわけです。それってアリなんだ、と思いましたね。会社で大失敗して四ヶ月分の労働が吹っ飛んだ頃、世の中の流れも変わってきた。自分のサイトも始めてましたから、コンピュータで表現する人たちのコミュニティで自分のグラフィックがだんだん認識されるようにもなってきて。そのうちに香港で音楽のサイトを立ち上げる中国人から連絡が入ったり、電通でインターネットを扱う新しい部署の人からメールが来たり、にわかにそっち方面が忙しくなってきたんです。

 橋の設計事務所は五年目に辞めました。でもすぐ独立したわけじゃなくて、大企業のサイトのデザインを請け負う会社に入って、ディレクターをやりました。会社だから当然、デザインの管理やコスト・パフォーマンスを考えなければいけない。それがやっぱり性に合わなくて、自分でやりたいことやろうとフリーになったものの、貯金もすぐに底をついた。そのタイミングでNECの人からメールが来たんです。そこで請け負った最初の仕事がNECが始めたecotonohaというウェブのデザインでした。これがいきなりカンヌの賞(サイバーライオン賞グランプリ)をもらい、大変に栄誉のある賞だと知ってびっくりしました。

ユニクロの仕事

 ユニクロ ソーホー ニューヨーク店のウェブデザインの仕事は、アートディレクターの佐藤可士和さんから来た話です。可士和さんとは海外で開かれたデザイナーのカンファレンスで知り合いになりました。最初は妻と一緒に遠くから可士和さんを見て「あ、サトウカシワだ。サインしてもらおうか」なんて言ってたんです(笑)。可士和さんと話すようになって「そのうちにサイトを作ろうと思ってるから相談にのってよ」と言われていたんですけど、可士和さんがユニクロの大きな仕事を任されることになって、「ウェブデザインをやってほしい」って依頼がまず先に来た。それがサイトをスタートさせる二週間ぐらい前の話(笑)。

 ユニクロのソーホー ニューヨーク店のロゴを見せながら可士和さんはぼくが引っかかりそうなキーワードで説明してくれました。「常に更新されながら、常に動いている感じ」、「概念の違うシステムがやって来た、みたいな感じ」。なるほどと思ってつくったのが今のウェブデザインです。

20061004_3.jpg ぼくがいつも思うのは、自分が当時ジョン前田さんの作品に驚いたのと同じような、子どもじみた驚きをつくりたいということかな。マウスを自分で動かすとグラフィックが反応するのって単純に楽しいじゃないですか。その感覚はどこから来るのかというと、コンピュータから来るんじゃない。自分から生まれる。自分の手の動きが画面の動きをつくりだす。感覚の源泉は人間なんです。ぼくのグラフィックはつねにそのことを考えてつくっているかもしれません。コンピュータの本質、面白さはそこにこそある、と思うからです。

uniqlo_logo.gif2006年11月、ユニクロはニューヨーク、ソーホー地区に新たな旗艦店をオープンいたします。売場面積はユニクロ史上最大の1000坪。このプロジェクトには、今それぞれのジャンルで世界的に注目されている、最高の才能が集結しました。クリエイティブディレクター佐藤可士和、インテリアデザイナー片山正通、アートディレクターのマーカス・キールステン、インターフェースデザイナー中村勇吾の各氏。彼らの才能が、ユニクロの本質である「美意識ある超合理性」をユニクロ ソーホー ニューヨーク店で展開します。ご期待ください。

*ユニクロ ソーホー ニューヨーク店のホームページはこちらからご覧下さい。

「考える人」2006年秋号

(文/取材:新潮社編集部、撮影:菅野健児)

詳しくは、新潮社のホームページをご覧下さい。