Build
the Future

Interview with Tadao Ando

  • Photograph by Keisuke Fukamizu
  • Text by Kosuke Ide

建築の常識や固定観念に挑戦するような作品を次々と送り出し、世界的に知られる建築家・安藤忠雄は、建築の仕事と並行して数々の社会活動に取り組んできた。

自らの提案で大阪・中之島に建設した児童向け図書施設「こども本の森 中之島」で、闘い続ける建築家の言葉に触れた。

こども本の森 中之島

3階建て、自ら設計した800㎡の空間に、購入や寄付による本が約18,000冊並ぶ。

〒530-0005 大阪市北区中之島1-1-28

Tadao Ando | 安藤忠雄
Architect

1941年大阪生まれ。69年に安藤忠雄建築研究所を設立。97年東京大学教授、2003年から名誉教授に。作品に「セビリア万博日本政府館」「光の教会」「大阪府立近つ飛鳥博物館」「淡路夢舞台」「兵庫県立美術館」「フォートワース現代美術館」「プンタ・デラ・ドガーナ」「ブルス・ドゥ・コメルス」など多数。1979年に「住吉の長屋」で日本建築学会賞、2002年に米国建築家協会(AIA)金メダルほか受賞歴多数。2010年文化勲章受章。

「よし、みんな一緒に写真撮ろうか」

図書館を訪れるやいなや、颯爽とした足取りで地階へと続く階段を降りた安藤忠雄さんがそう声をかけると、館内のあちこちに座り込んで本を読んでいた子どもたちが、一斉に安藤さんの周りに集まってきた。大阪・中之島に昨夏、完成したばかりの「こども本の森中之島」、その設計者の突然の来訪に驚き、歓迎するように、保護者の方々がその様子を撮影し始めた。

「いくら良い図書館をつくったからといって、訪れた子どもたち全員が本を好きになるわけではないですから。ここに来ている子どもたちの中の10人に一人でもいい。『あの時、面白い図書館で安藤さんと写真撮ったなあ』と後で思い出してくれるかもしれない。そういう体験が、本に興味を持つきっかけになるかもしれないでしょう」

大きな開口部から自然光が差し込む吹き抜けの空間で、3つのフロアの壁面に設えられた書架から子どもたちが気の向くままに本を選び、まさしく“森の中”を歩くように本に親しむ。そんな理想的な児童向け図書館を、古くから大阪の行政・経済、そして文化の中心地でもある中之島につくりたい。この文化施設は、そうした思いから安藤さんが提案・設計し、その建設費を自ら全額負担したものだ。

「大阪市から公共用地につくっても良いと許可はもらいましたが、建築費も運営費もない。それなら、建設費は私が出して、運営費は民間から募ろうと。30万円出してくれる人を200人集めれば、6,000万円。それだけあれば一年間は運営できる。そこで、一口30万円を5年間にわたり寄付していただける協力者を募るため、地元の企業を中心に地道に呼びかけたところ、目標を上回り600口を超える支援が集まりました。5年間で約10億円が集まる見込みです」

算盤を弾くように瞬時に具体的な数字を挙げて説明する安藤さんだが、当然ながらそれだけの寄付を集めることも、また巨額と言える建設費を出資することも、まったく容易でないことは疑うべくもない。それでも数多の困難を乗り越え、プロジェクトを実現させたその背景には、子どもたちの未来に対する強い思いがあった。

「これから先の社会をつくっていくのは、今を生きる子どもたちです。知識を養い、自分の頭で考え行動することのできる子どもたちを育てるには、やっぱり本が必要なんです。だけど長い間、日本では経済中心の社会の中で、『役に立たない本なんか読んでいないで、もっと実利になることをしなさい』という教育が行われてきました。大人たち自身が、売上や利益ばかり追いかけてきたんですね。私は大阪の典型的な下町に生まれ、およそ文化的というには程遠い環境で育ったため、子ども時代は身近に本がありませんでした。今、後悔するのは、感性の鋭い、多感な時期にたくさんの本を読んでおけばよかったということです。それでもまだ我々の時代には自由があった。それに比べ、現代はひたすら効率が求められる社会の中で、教育も偏差値重視になり、自ら考える人間が少なくなっている。私は、人間が生きていくために最も大切なものは自由だと思っています。その自由を守るために、闘っていかなければなりません」

“闘う建築家”、確かに安藤さんにはそんなイメージがついてまわる。工業高校時代にはボクシングに熱中してプロボクサーになり、その後、大学で正式な建築教育を受けることなく、アルバイトをしながら独学によって建築を学んだ。

「学校に行った人より勉強しないといけないと思っていましたから、必死でしたね。食事代を切り詰めて、一流大学の建築学科の学生が読む教科書を買い集めて、アルバイトの昼休みの時間もずっと勉強していました」

20代前半の頃には、国内外を渡り歩き、日本の歴史的な建築や西洋の建築を実際に見て体験する旅に出た。1969年、28歳で独立。1970年代以後は住宅から公共施設まで、建築の常識や固定観念に対して「挑戦的」とも言える先鋭的な作品を次々と発表し、世界的な建築家としての地位を確立してきた。

そうした仕事の一方で、安藤さんは長年にわたり、建築の枠を超えた数多くの社会的活動を行ってきたことでも知られている。そのひとつが、瀬戸内海の沿岸や島々に総計100万本の樹木を植えることを目的とした「瀬戸内オリーブ基金」※1のプロジェクトである。

※1 瀬戸内オリーブ基金

豊島事件をきっかけに、瀬戸内海の美しい自然を守り再生させていこうと2000年に設立。環境が破壊された28万5,000㎡のうち、20年間の活動によって3,980㎡で緑が回復し始めた。海岸のゴミを拾ったり植樹をしたりするボランティアはこれまでに1,500人以上が参加。活動に賛同したユニクロでは、01年から店頭での募金活動を始め、11年からはジーユーも参加し支援を続けている。募金は19年度末までに総額約6億円にのぼり、環境保護に取り組むのべ369団体へ助成を行った。

堂島川に沿うように立つ建築はゆるやかにカーブしており、内部のインテリアも曲線を多用した動きのあるデザイン。2階には図書館にいる多くの人々の顔が一度に見える空中回廊を設えた。

「インターネットを通じて簡単に情報が入手でき、放っておいても流れてくる今だからこそ、あえて自らの身体を使って手に取り、能動的に選んで本を読むことが、子どもたちにとって大切」と語る安藤さん。

“闘う建築家”、確かに安藤さんにはそんなイメージがついてまわる。工業高校時代にはボクシングに熱中してプロボクサーになり、その後、大学で正式な建築教育を受けることなく、アルバイトをしながら独学によって建築を学んだ。

「学校に行った人より勉強しないといけないと思っていましたから、必死でしたね。食事代を切り詰めて、一流大学の建築学科の学生が読む教科書を買い集めて、アルバイトの昼休みの時間もずっと勉強していました」

20代前半の頃には、国内外を渡り歩き、日本の歴史的な建築や西洋の建築を実際に見て体験する旅に出た。1969年、28歳で独立。1970年代以後は住宅から公共施設まで、建築の常識や固定観念に対して「挑戦的」とも言える先鋭的な作品を次々と発表し、世界的な建築家としての地位を確立してきた。

そうした仕事の一方で、安藤さんは長年にわたり、建築の枠を超えた数多くの社会的活動を行ってきたことでも知られている。そのひとつが、瀬戸内海の沿岸や島々に総計100万本の樹木を植えることを目的とした「瀬戸内オリーブ基金」※1のプロジェクトである。

※1 瀬戸内オリーブ基金

豊島事件をきっかけに、瀬戸内海の美しい自然を守り再生させていこうと2000年に設立。環境が破壊された28万5,000㎡のうち、20年間の活動によって3,980㎡で緑が回復し始めた。海岸のゴミを拾ったり植樹をしたりするボランティアはこれまでに1,500人以上が参加。活動に賛同したユニクロでは、01年から店頭での募金活動を始め、11年からはジーユーも参加し支援を続けている。募金は19年度末までに総額約6億円にのぼり、環境保護に取り組むのべ369団体へ助成を行った。

1. 瀬戸内海に浮かぶ香川県・豊島。10年以上に及び、島の西側(写真下)に産業廃棄物が不法投棄され続けていた。

photographs by Hiroshi Fujii

2. ゴミが投棄されていた現場。2019年までの16年間で約91万トンの廃棄物が撤去・処理された。

photographs by Hiroshi Fujii

3. オリーブ園からの景色。

photographs by Kei Kobayashi

「ベネッセコーポレーションの福武總一郎さんに瀬戸内海の直島を現代アートの力で文化の島にしようという壮大な計画に誘われ、1980年代の後半から島の一連の施設の設計に関わっていました。その中で、香川県の豊島の産業廃棄物の問題も知りました。かつては緑豊かな島だった豊島は、70年代ごろから企業による産業廃棄物の不法投棄が行われたことで、自然環境が破壊され、島民の抗議が続いていました。この問題を日本の環境破壊の象徴と捉えて、瀬戸内の自然を少しでも取り戻すために、豊島事件で闘ってこられた弁護士の中坊公平さん、心理学者の河合隼雄さん(いずれも故人)との呼びかけで始めたのが、植樹のための基金の設立でした。2000年の発足間もない頃から、ファーストリテイリング代表の柳井正さんに賛同していただき、店頭での募金を始め、運営委員会も設置しました。スタートから20年が経っていますが、植樹は17万本に達し、多くの環境NPOに対する助成事業を始め、地道に実績を積んでいます。2019年に産廃撤去は完了しましたが、汚染水処理など課題も残っています。まだまだ続けていかないといけないと思っています」

東京湾ではゴミの埋立地に50万本の苗木を植え、緑の森に変える「海の森」プロジェクトを、また大阪・中之島では市民参加により約3,000本の桜を植えることで都市の魅力を創出し、新しいまちづくりの形を示す事業「桜の会・平成の通り抜け」プロジェクトを行った。この他にも多くの自然環境にまつわる事業に多くの時間を割き、携わってきた。

「日本人は長い間、四方を海に囲まれた島国で、豊かな自然とともに生きてきました。緑あふれる環境の中で、家族や地域社会とお互いに助け合いながら生活を営む文化があったんです。しかし、そうした美しい日本の自然環境は、どんどん破壊されていきました。それはやはり、1970年代に世界有数の経済大国になり、90年代にバブル崩壊を経験しながらも、今までずっと経済発展中心の考え方で社会が動いてきたからです。地球温暖化も、昨今のコロナウイルスも、すべてつながっている問題だと私は考えています。自然の中で暮らしてきた人間が、自然に対する感性を鈍らせてしまった。そうしたことが、現代社会のさまざまな問題を生んできたことは明らかです。これからの世界を生きる次世代の子どもたちに対して、私たちは責任があるし、何かしていかなければいけません」

自然とともに暮らす、そして互いに助け合って暮らす。安藤さんの未来に対する活動は自然環境に対するアプローチだけに留まらない。1995年に阪神・淡路大震災が起きた際には、被災地への鎮魂の意を込めた植樹活動「ひょうごグリーンネットワーク」の他、震災で親を亡くした子供たちを支援する「桃・柿育英会」※2を設立。10年間で約5億円を集め、418名の遺児・孤児に支給した。2011年に起きた東日本大震災の際にも、同様に育英基金を立ち上げた。10年間で被災3県への寄付総額は、1団体としてこれまでで最も多い52億円に達し、1889名に及ぶ遺児・孤児たちに支給された。

※2 桃・柿育英会

阪神・淡路大震災で保護者を亡くした子どもたちを支え、健やかに成長してほしいとの願いを込め安藤忠雄さんら8名が呼びかけ人となって発足。2011年5月から始まった「東日本大震災遺児育英資金」には柳井正らも発起人として参加。名前の由来は「桃栗3年、柿8年」と果樹が育つのをじっくりと待つことわざのように、子どもたちを見守っていきたいという思いから。

4. オリーブの植樹をする子どもたち。

5. 安藤さんが基金の活動に込めた「瀬戸内海を緑に」との言葉を刻んだ碑。

「私には、特別に何か社会貢献をしようとかいう意識はないんです。ただ自分たちの生きる環境を守っていきたい。自然は放っておいては駄目で、やはり定期的にメンテナンスしなければいけないでしょう。人間関係も同じで、やっぱり“手入れ”していかないと。だから、自分で関わっていく。助けが必要な人には、手を差し伸べる。そうすることで生き延びていくことができるから。もちろん、他人に手を差し伸べるには自分に力がないといけません。知的体力、肉体的体力が必要です」

「こども本の森 中之島」のエントランス近くに設置した、自ら「青春の象徴」と語る青りんごの前で。

自分の生きる環境を守るために闘い続けること。今年、80歳になる安藤さんの尽きることのないエネルギーはどこから生まれてくるのだろう。しかも、安藤さんは2009年に身体にがんが発覚して以来、これまでに十二指腸、胆管、胆のう、膵臓、脾臓の全てを摘出する手術を受けている。

「人生はそういうことが起こるんですね。5つも臓器を取って生きていけるのか、と医者の先生に聞いたら、『生きていけるけど、元気になった人はいない』と言われました。手術してからは、毎日よく歩いて、食事は40分かけて摂っています。食べた後も休憩しないといけない。だけどその時間を、ものを考えたり読書したりする時間に充てられる。今では、内臓を取ってこんなに元気な人はいないと言われます」

ほとんど「超人的」とも言えるバイタリティで、この日も2時間近くも熱っぽく語り続けた安藤さん。その力の源はと尋ねると、「私には希望があるから。やらなければいけないことがあるから」と即答した。

「児童向け図書館は今、神戸にも、岩手の遠野にもつくる計画が進んでいます。これらも建設費は自費です。いくら自分がやりたいと申し出ても、なかなか受け入れてくれる自治体はないんですよ。運営費が必要ですからね。こんなことを続けている私を見て、『安藤さん、あなたにはたくさん仕事の依頼もあるんだから、わざわざ自分でお金まで出して建物をつくる必要はないでしょう』と言う人もいます。でも、こんな人間が千人に一人くらいはいてもいいでしょう。一人でもそういう人がいたら、真似する人が出てくるかもしれない。どうせ一回の人生ですから、自分がもらったお金は使ってしまおうと。どれだけ美しいデザインの建築をつくっても、大した意味はないんです。建築はいつか消えます。けれども、心の中に残るものは消えない。生きるということは自分の考え方を表現することですから。私は人の心にいつまでも残り続ける建築をつくるため、挑戦を続けたいと思っています。でもね、人生ってまあうまくいかないんですよ。よし、うまくいくぞと思ったら、やっぱり駄目。その繰り返し。だから、踏ん張り続けないといけないんですよ」

安藤さん曰く、「今の日本人はお金がない、熱意もない。プライドばかり高い。未来が見えない」。八方塞がりにも見える厳しい状況を次々と指摘した後で、闘い、挑戦し続けてきた建築家は「さて、これからどうやって立ち直るか」とニヤリと笑う。

「でもね、淡路島の夢舞台の敷地だってかつては土砂採掘場の跡地で、計画に着手した30年前は木が全くなかった。そこに人の手で苗木を植えるところから始めて、今では大きな森が育っている。やればできるんですよね。何でも全力でやっていれば、命がけでやっていれば、いつかはうまくいくんです」

「こども本の森 中之島」のエントランス近くに設置した、自ら「青春の象徴」と語る青りんごの前で。

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