2004年12月28日
BACKSTAGE REPORT(1) ザスパ草津 ~「考える人」2005年冬号〜
~「考える人」2005年冬号(新潮社)より転載~
「発足した当時は雲をつかむような感じの夢でしかなかった」
ザスパ草津
THESPA Kusatsu 草津温泉フットボールクラブ
Jリーグで戦力外通告を受けた選手たちの「セカンド・キャリア」
二〇〇二年の夏。発足したばかりのザスパ草津を取材に行った。
ザスパ草津にとって「地域密着型」の理念は単なるお題目ではない。選手は草津温泉の旅館やスーパーなどで働き、その合間を縫うようにして練習をする。前年までJリーグで活躍していた選手だとしても、布団の上げ下ろしをし、料理を運び、お客さんに頭を下げていた。選手たちはチーム運営の財政を一部負担しながら、社会人としての経験を積んでゆく。地元である草津温泉の人々は、選手が働き手として身近になることで「我がチーム」という意識を育てることができる。これがザスパ草津の考え方であり、姿勢だった。
Jリーグでは年間で百数十人が戦力外通告を受ける。高校を卒業と同時にJリーグ入りしたとしても、一、二年で芽が出なければ退場を余儀なくされてしまうのだ。プロの現実は厳しい。子どもの頃からひたすらサッカーをやり続けてきた二十歳そこそこの若者から、サッカーそのものを奪ってしまったら、あとは何が残るだろうか。他の道を探ろうという気にもならず、その気があったとしても具体的な何かを見つけることもできず、フリーターになり、あるいは親のすねかじりになって、自立できないまま宙ぶらりんというケースが少なくない。もちろん妻子のある三十代の選手もいる。辞める選手の「セカンド・キャリア」をどうするかという問題は、華々しいJリーグの舞台裏で深刻なものとなりつつあった。
ザスパ草津はこのような背景のなかで、Jリーグで戦力外通告を受けた選手の積極的な受け皿としても機能していたのである。
しかし元Jリーガーは、標高約千二百メートルに位置する草津温泉に初めてたどり着いたとき、誰もが少なからず驚きと落胆を覚えることになる。
初めて草津にやってきたのが三月だとすれば、彼をまず迎えるのは、一面の雪景色。屋内練習場はない。雪が降れば車で一時間ほどかけて山をおり、雪のないグラウンドまで出かけなければならない。そしてグラウンドは緑の芝生ではなく黒い土。シャワーの設備もない。
いっぽうで夏の涼しさという特典はある。ポールを立て網をはりめぐらせただけの観客席のないグラウンドのまわりには、うっそうと草木が生い茂る。通り抜ける爽やかな風だけが選手の味方だ。ボールが蹴りあげられて網を越えてしまうと、茂みのなかに消えたボールは自分たちで探しに行かねばならない。知らずに蜂の巣に近づいてしまい、蜂にさされてしまった選手もいる。
一九八一年生まれ、ディフェンスの籾谷真弘選手は、U-18、U-19日本代表を経験している。しかしJ1のセレッソ大阪から戦力外通告を受け、ザスパ草津にやってきた。二〇〇三年までは午前も午後も地元の商店で仕事をする毎日だった。仕事に疲れた体でサッカーをし、サッカーに疲れた体で仕事をしなければならない。仕事が午前中だけになったのは、二〇〇四年に入ってからである。
「ここで足踏みをしてしまったら、チーム自体がなくなってしまうかもしれない、と思いながらやってきました。この試合に負けたらもうひとつ下のリーグに降格する瀬戸際の場面もありましたし、いつも後には戻れないところでやっている意識がありました。その危機感が原動力になったんじゃないでしょうか」
草津温泉に育まれたチームという気持ちは忘れてはいけない
二〇〇四年に入ってからJ2昇格が見えてきたザスパ草津は、サポーターの数もうなぎ上りとなり、財政的にも好転し、次第に環境が変わってきた。新たな選手も次々と入団し、籾谷選手は早くも古株になってしまった。最近入ってくる選手のなかには、就業が契約に含まれていない選手もいる。彼らは籾谷選手とは違い、仕事場を持って働く必要がない。
「これまで自分がやってきたことを思うと、正直な話『どうして?』という気持ちがないといえば嘘になります(笑)。ただ三年にわたって仕事をさせてもらって自分が得たものは大きいです。それは、時間を意識すること、それから責任感ですね。時間をどう使うかというのはこの環境に放り込まれなければ身に着かなかったし、サッカーをやっているだけでは本当の意味での社会的な責任を考えることもなかった気がします」
籾谷選手はJ2昇格を目の前にして、就業先を持たない選手と一緒にレギュラーとして活躍している。いっぽう勤務のない契約で入った一九七三年生まれの山口貴之選手は、U-18、U-19、U-21、U-22のそれぞれ日本代表、そして日本代表Bに選出された経験を持っている。しかし最後に所属したヴィッセル神戸を戦力外通告となり、二〇〇四年三月に草津へやって来た。
「J1から見ればザスパはJ3ですから覚悟はしていました。でも僕は十五歳で読売ジュニア・ユースに入っていたので、Jリーグが発足する前の日本リーグ時代の状況も覚えてるんです。あの頃は給料も安かったし、いいクルマなんて乗れなかったし、洗濯はもちろん自分たちでやってました。だからザスパの現状がひどいとも意外だとも思わない。ただ、僕は仕事をしないでいられるけど、仕事をやっているメンバーはきついですね。地方に遠征して夜遅くに草津に帰ってきて、それでも翌朝から仕事でしょう? 立ち仕事が多いですから、練習中に足つっちゃったり、仕事の最中に腰を痛めたりする選手もいます。そういう様子を見てると正直言ってかわいそうだなと思うことはあります」
山口選手は結婚している。奥さんは奈良在住。「落ち着くまでは来るな」と言ってあるという。草津に来てからまだ一回しか会っていない。そんな状況も含めて、山口選手は驚くほど淡々としている。
一九六六年生まれ、中田英寿と同じベルマーレ平塚時代に日本代表をつとめたゴールキーパー、小島伸幸選手兼コーチは、ザスパ草津の創設メンバーだ。
「もちろんザスパがJリーグ入りできればいいなあとは思ってましたよ。ただ発足した当時は雲をつかむような感じの夢でしかなかった(笑)。それがあと少しでJ2昇格という勢いでしょう? 早いですよね。やっぱり後がない切羽詰まった場面の連続で、勝つしかないという状況で走ってきたのが今日につながったんだと思います。J1やJ2からここに来たことを引きずっているような選手はすでにいなくなってます。性根を変えて、開き直って、Jに復帰してやるんだという気持ちを持った選手が生き残った。そういう選手がザスパを引っ張ってきたんです。僕もその一人(笑)。でも、この後さらにJ2からJ1まで昇格するとして、その時点で自分が現役でやっているかと言えば、それは難しいかな。僕はね、同世代が応援してくれてるみたいなんです、『まだやってるんですね』って(笑)。ただ、プロとして見せるに値するプレーができているかどうかはつねに意識してますから、若い選手にバトンタッチしていく必要はあると思っています」
小島選手はザスパの地元、草津温泉への思いも強い。
「われわれを最初に受け入れてくれたのは草津の町民の皆さんなんです。最初は応援に来て下さる方も今ほどではなかった。でも草津温泉のさまざまな場所で選手が働きながら頑張って、信頼を得て、その職場から応援の輪が広がっていったと感じます。サポーターが増え、僕らのテンションも高まって、ここまでやってこれたのは間違いない。だからJ2に上がったとしても、ここまで草津温泉に育まれたチーム、という気持ちは忘れてはいけないし、忘れたくないですね。若手にもそのことは伝えていきたい」
J2に昇格すれば、これまでのように仕事をやりながらのサッカー、というやり方をそのまま踏襲するのは難しくなってくる。Jリーグを開催できる競技場の問題もあり、ザスパ草津の実体は事実上前橋市に移ってしまうのではないか。草津温泉の人々は自分たちから離れていくことを心配し始めている。ザスパ草津をここまで率いて来た社長、賢持宏昭氏はJ2への昇格とザスパの今後のあるべき姿についてどう考えているのだろう。
「三年でここまで来るとは想定していませんでした。早かったですね。たしかに苦労とか困難とか様々なハードルがあったわけですが、それを乗り越えなければならない大変な作業とは考えたくありませんでした。目標はなるべく高く設定して、それに向けてチーム全体がイメージを共有しながら挑戦してきたんです。サッカーのかたわら仕事をするのはきつかったでしょうけれど、しかしJリーガーだった選手が草津に来て再起できたのはそのお陰も大きかったと思います。
ただ、これだけサポーターの皆さんも増えて、J2ということになると、できるだけ練習に集中して取り組まなければ、闘う姿勢、高いパフォーマンスを皆さんにお見せできない可能性が出てきます。じゃあ草津温泉との連携を捨てるのか、と言えば、それはあり得ないですね。ここまで地域の方々に育てていただいてきたわけですから、このザスパイズムは守っていきたい。チームのトップで活躍する選手が旅館で働くのが難しくなったとしても、ボランティア活動や、子どもたちへの指導といった地域活動には必ず取り組んでもらいます。そして二軍でやる選手たちには、引き続き草津温泉で働いてもらう。サッカープレーヤーである前に、ひとりの社会人として勉強してもらって、地域のためのサッカーチームなんだという認識を育ててもらいます。トップチームにいたとしても、怠けていれば故郷の草津に戻ってもらい、一から勉強し直してもらう。草津温泉の役割はさらに明確に、重要なものになっていくと思っています」
セレッソ大阪を後半で逆転二対一の大金星
十一月五日。群馬県立敷島公園陸上競技場に試合を見に行った。この試合でザスパ草津に勝てば、JFLでの優勝が決まる首位の大塚製薬とのナイター。観客はJFL史上最高の一万三七四三人を記録した。
JFLの試合は、ローカルな淋しい雰囲気があるのかと思っていたら、とんでもない。観客席はぎっしりと埋まり、ホームで圧倒的多数のザスパ草津サポーターが終始熱い声援を送り続けていた。取材した選手たちはその圧倒的な声援を背中に受け、ピッチを縦横に走り続けた。
JFLの首位だけのことはあって大塚製薬は手強い対戦相手だった。前半は〇対〇。しかし後半に入ると、ザスパの動きにリズムが生まれる。MFの山口選手を司令塔に早いパス回しが通り始め、DF小田島がゴールを決めた。PKのチャンスでも山口が手堅く追加点をあげる。終わってみれば二対〇。後期六連勝となった。さらに、十一月十四日の天皇杯の四回戦では、セレッソ大阪を相手に粘り強く後半で逆転し、二対一の大金星。
ザスパ草津はこの三年で驚くほどの急成長を遂げた。勢いと自信が溢れている。
草津温泉と共に歩んできたザスパイズムがJ2でどれだけ花ひらき、そして実を結ぶのか。しばらくは目が離せない展開になってきた。
株式会社ファーストリテイリングは、ザスパ草津が掲げる『地域密着型の新しいサッカークラブチームのあり方を目指す』という姿勢に共感し、群馬県社会人リーグ所属当時の2002年からオフィシャルユニフォームサプライヤーとして応援を続けています。ユニフォームをはじめ、練習着、移動着など試合以外のオフィシャルウェアも提供し、選手・スタッフの皆様を衣料の面から総合的にサポートしております。去る12月6日に決定したザスパ草津のJ2昇格をお祝いするとともに皆様の更なる熱い声援をお待ちしています。
「考える人」2005年冬号
(文/取材:新潮社編集部、撮影:菅野健児、田村邦男)
詳しくは、新潮社のホームページをご覧下さい。