プレスリリース

2004年01月06日

SHOW YOUR COLORS 髙田賢三 ~「考える人」2004年冬号〜

~「考える人」2004年冬号(新潮社)より転載~
SHOW YOUR COLORS.

髙田賢三(Takada Kenzo)

(財)日本オリンピック委員会会長

パリの三十八年とオリンピックの仕事

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東京オリンピックと聞いて思い出すのは「立ち退き」です。僕は当時六本木に住んでいたんですが、東京オリンピックに伴う再開発で、それまで住んでいたアパートが建て替えられることになったんです。その立ち退き料が大金で、のちのパリ行きの資金の一部になりました。東京オリンピックにパリ行きの背中を押されたのかもしれません(笑)。

それまでの六本木は、何もない寂しい街でした。ところが、この頃から東京のあちこちで工事が始まって、ビルばかりじゃなく、高速道路や新幹線がどんどん作られていった。東京の今の原型がこの頃に出来上がっていったんだと思います。だから今六本木に行っても、僕が住んでいた頃とはまったく違うんで、もう全然わからなくなっちゃいましたね。

パリに行ったのは東京オリンピックの翌年、一九六五年でした。当時は三愛の企画室で働いており、半年の長期休暇をもらって行くことにしたんです。

横浜から「カンボジア号」という大きな船に乗って、一ヶ月の旅でした。香港に二泊したり、シンガポールに一泊したり、まだベトナム戦争が泥沼化する前のサイゴン、それからボンベイにも寄りました香港の人たちは当時みんな人民服で、洋服を着ている人なんて一人もいなかった。シンガポールは今のようなビルの影も形もありませんでしたし、やっぱりアジア諸国は、今と較べたら想像もできないほど貧しい時代です。だからこそ、今でも忘れられないぐらい、一ヶ月の船旅は面白かったのかもしれません。

暗い冬のパリと明るい春のパリ

20040106_5.jpgパリに着いたのが一月一日の夜でした。パリ・リヨン駅に着いたら見上げるようなビルもネオンもない。パリの華やかさなんてどこにもないんです。パリもニューヨークみたいな大都会かと想像してたのに、とにかく寒くて、暗くて、雨も降っていて……なんて嫌な町だろうと思った(笑)。がっかりでした。

出発する前に東京で『ヨーロッパ一日5ドルの旅』っていう本を買ってホテルも調べておいたんです。とにかくお金がない旅でしたから、ソルボンヌの近くにある安ホテルを予約していました。暗い街をタクシーでホテルに向かう途中、セーヌの対岸からノートルダムを眺めるあたりにさしかかったら、パッときれいな夜の照明が目に飛び込んできたんですね。「わあ、すごくきれいだなあ」と、ここで初めてパリを肯定的に見られる気分になりました(笑)。

ところが翌朝、パリ市内を歩いてみても、ちっとも印象はよくならない。パリの建物はあの頃から壁の汚れを洗い落とし始めていたんですが、まだ街全体が灰色で、くすんでいました。昼のパリにも心は躍りませんでした。
一ヶ月もかかって到着したこともあって、パリは遠い国だという印象です。当時は今みたいに簡単に電話もできないし、送金するのも手続きが面倒で難しい時代です。パリには日本料理店なんて小さい店がたった一軒しかなかった。すぐホームシックになっちゃいました。早く日本に帰りたい(笑)。

フランス語がまったくできなかったので、最初のうちはセルフサービスのレストランばかりで食事をとっていました。安いですしね。それでも語学学校に通い始めて、そこで友達もできて、パリにもだんだん慣れてきたかなと思えるようになった頃、パリに春が訪れたんです。

そうなると、パリが春のお天気とともにガラリと雰囲気を変えたんです。その頃はちょうどシャネルの全盛期で、。女性はみんなファッションモデルの松本弘子さん風のおかっぱのヘアスタイルでしたサンジェルマン・デ・プレあたりにはシャネルやクレージュのミニスカートをはいた人たちが、どこかから湧いてきたみたいに颯爽と歩いている(笑)。「ドゥ・マゴ」や「フロール」にいけば必ずそういう人たちが集まっていて、春になるまでこの人たちはいったいどこにいたんだろう、というぐらいの突然の変貌ぶりなんです。本当にびっくりしました。

それからは毎晩のようにサンジェルマン・デ・プレにでかけるようになりました。パリってなんてかっこいいんだろうって思いながら(笑)。

気がついたらパリの虜になっていました。人も街も活気づく春のパリで、初めて、本物の自由を肌で感じることができたというわけです。

あっという間に半年が過ぎていました。もちろん日本にはもう帰りたくない。どうしてもパリにとどまりたいと思うようになったら、偶然のように次々と仕事が決まり始めて、もうそのままパリに居座っちゃったわけです。

東京はまだ静かだった激変したのは八〇年以降

東京へも時々は帰っていました。六七年に一度帰国した時の東京は、オリンピック以降さらに開発が進んでいて、街の変貌ぶりも凄かったですね。それでもまだ東京にはディスコがなかったんです。パリではよくディスコに通っていましたから、「なんで東京にはないんだ」ってギャーギャー文句を言ってました。赤坂にディスコの「無限」ができたのは翌年の六八年でした。

表参道あたりは、店といえばまだ「キディランド」ぐらいで、ブティックもなかった。ほんとうに静かなものでした。僕がパリに小さな店を出すことができたのは七〇年で、東京でも七〇年代から友達の松田光弘君とかコシノジュンコさんが同じように店を始めた。表参道がにぎやかになっていったのも七〇年代以降のことですね。

仕事が軌道に乗ってからは半年に一回ぐらいは帰国していたんですが、八〇年を過ぎた頃からは、たった半年見ない間の東京の変貌に加速度がついて、行くたびにがらりと変わるようになりました。毎回とても驚いていました。八〇年代の東京は、本当にすさまじかったですね。

……まあそんな調子で、気がついたら三十八年もパリで暮らすことになったんです。でも、自分が日本人であることに大きな変化があったかといえば、それはそうでもなかった。外国かぶれだったのに、パリやフランスの文化にどっぷり染まるわけでもありませんでした。

パリにいてもやはり気になるのは日本

20040106_6.jpgたとえばなんですが、僕はスポーツ系の人間ではまったくないんですが、オリンピックはいつも気になるんです。パリに三十八年住んでいるんだからフランスを応援するのかというと、そんなことは全然なくて、やっぱり日本にしか関心がない。シドニーのときも、テレビを見たりインターネットで日本選手の活躍を確認したりしてました。日本はメダル何個とったかな? なんてチェックしたりするんです。フランスには冷たい(笑)。

やっぱりいちばん気になるのは開会式です。日本はかっこよく登場してほしいといつも思います。だから今回も公式のユニフォームのデザインの依頼をいただいた時には本当に光栄でしたし、二つ返事で引き受けてしまったんですけど、時間が経つにつれて大変なことになったなあ(笑)と気づき始めました。責任が重いでしょう? もし自分のデザインがうまくいかなかったらどうしようって。

「SHOW YOUR COLORS」というコンセプトのもとで、今までにない新しいユニフォームをデザインするのは面白いし、やりがいもあるんですが、やはり大変な仕事です。選手の個性をうまく引き出せるようなデザインであり、同時に全体としても統一感をつくりださなければならないわけですから。実際に形にするのはたやすいものじゃありません。
いろいろと考えた結果、自分なりの方向性は見えてきました。やっぱり清潔感は大事にしたい、元気が出るものにしたい。それにギリシャのアテネですから、エーゲ海のイメージもその中で軽く出せればいいな、というようなことが頭に浮かんできます。

ひとつのデザインだけで統一しないわけですから、形や色の組み合わせも多くなります。それが逆に散漫なイメージになってしまっては困るし、どういうふうにきれいにまとめることができるかがポイントになりますね。

スポーツですから、あまり堅い感じにならないカジュアルさがほしい。アテネは暑いでしょうし、開会式以外の場でも選手が着たくなるようなものになるといいなあと思うんです。選手の人たちに無理矢理着てもらうのではなくて、着て良かった、もっと着ていたいと思ってもらえれば成功だと考えています。

大変なのは、仮縫いですね。パターンがいっぱいあるので、忙しい選手たちの、それも全国にいる選手たちの採寸と仮縫いをしなくてはいけない。個性の演出には時間が必要不可欠ですね(笑)。

だけど個性というのは、着ている洋服だけで決定されるものじゃないと思うんです。トータルなものだと思います。服の着こなしはもちろん、その人の話ぶり、動き方、立ち姿、表情……いろんな組み合わせから自分らしさが滲み出てくるものですよね? 洋服も自分なりの組み合わせがどうできるかで、だいぶ印象が変わるんです。今回のユニフォームにはそういう気持ちも込めてデザインしているところです。日本の選手たちがどう着こなしてくれるか、とても楽しみですね。

フランスにいれば日本びいきで東京に帰ると「日本批判」になる

日本は古いものと新しいものとうまく取り入れて消化できる国だと思います。義理や人情を大切にするところもあるし、新しいものに飛びつくところもある。両極端な性質を持っているのが面白いところですね。

その一方でやっぱりフランス人ほど自己主張は強くない。遠慮したり控えめなところがありますよね。僕はそこが日本人のいいところだと思うんです。僕もそういう意味では典型的な日本人です。

でもフランスで遠慮していたり、何も言わないでいたら、それはすなわち「意見のない人」になってしまう。

「ノー」ってすぐに言わず、おかしいと思っても反対の意見を言えなければ、それは「イエス」と同じことになるんです。だから黙って言わないままでおくと、自分の責任になってしまいます。だから大変です。僕はなるべく問題を起こしたくない、波風を立てたくないタイプなので、それが災いしていろいろと失敗しましたけど……。難しいですね。
それでいて、日本に帰ると、ついつい日本の批判をしたくなってくるんです。フランスだと僕の仕事についてきちんと正面から意見を言ってくれるのに、日本人は気に入ってくれたのか、気に入らないのか、どっちなのかはっきりしないことが多くて、結構イライラします。はっきりしてほしいと思うことがある。やっぱり会話のようなコミュニケーションがまだ下手なんだと思います。

日本人は教養があるはずなのに、会話の場ではそれがあまり弾まない。フランス人って政治についても文化の問題にしても、様々なジャンルについて横断的に話のできる人たちなんですね。日本人って話題が少ないし、狭いような気がします。
……と何だかんだと言っても、自分も日本人というところから抜けられない。パリでだいぶ鍛えられたとはいっても、まだまだ苦労しているのが本当のところです。人のことはあまり言えません。

二〇〇四年のアテネでは、物怖じしないような日本の新しい個性をぜひ発揮してもらいたいですね。そのバックアップができれば、これほど光栄なことはありません。

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Takada Kenzo
1961年文化服装学院を卒業後、65年に渡仏。70年にギャラリー・ヴィヴィエンヌに「ジャングル・ジャップ」ブティックをオープン。初コレクションを発表。84年国家功労章芸術文化勲章(シュヴァリエ位)を受章。85年にケンゾー・パリ(株)を設立。99年紫綬褒章を受章。同年「KENZO」ブランドを退く。2000年に株式会社KENZOTAKADA(日本)設立。02年にはフランスピノー・プランタン・ルドゥート社とのコラボレートで通販カタログ誌「LaRedoute」(ラ・ルドゥート)へ招待デザイナーとして参加。03年、日本オリンピック委員会の公式服装選考委員会のデザイナーに就任。

「考える人」2004年冬号

(文/取材:新潮社編集部、撮影:鈴木春恵)

詳しくは、新潮社のホームページをご覧下さい