プレスリリース

2003年04月04日

一本の線から生まれる。 浅葉克巳 ~「考える人」2003年春号〜

~「考える人」2003年春号(新潮社)より転載~

浅葉克巳(アートディレクター)

私たちを夢中にさせるものがトンパ文字には隠されています。

文字の世界は深い。五年間で骨身に沁みてそう思いました。

20030404_7.jpg一九五八年に県立神奈川工業高校図案科を卒業して、横浜松喜屋という小さな百貨店の宣伝部に就職しました。横浜は中心部がアメリカ軍の占領から解放されたばかりで、ポッカリと大きな空き地になってましたね。十八歳だった僕は痩せてましたし、頭は「慎太郎刈り」。なんだかギラギラしているヤツでした。その頃は、ソール・スタインバーグみたいに一本の線だけで食べていけるイラストレーターになりたい、それで世界中を渡り歩きたい、と思っていたんです。
ある日、宣伝部の先輩だった富井虎雄という人が、僕を松喜屋の喫茶店に連れて行った。富井さんは進駐軍の情報部で一緒に働いていたという佐藤敬之輔先生をそこで紹介してくれたんです。佐藤先生は初対面の僕にいきなり文字の世界について熱心に語るちょっと独特の人でした。僕はそれまで文字じたいを面白いと思ったことなんかなかったのに、佐藤先生に会ったことでふっと興味を持ったんですね。後日、横浜にある佐藤先生のアトリエを訪ねたわけです。
結局それから五年間、佐藤先生のもとで文字の設計、タイポグラフィの修行を重ねることになった。先生はデザイナー出身じゃなくて東大を出た理論派であり研究者でしたから、先生の理論を具体化する職人が必要で、僕はその役割を担ったわけです。今は線を引くのもコンピュータのマウスでしょ。当時は全部カラス口で手描き。曲線を手描きなんて、えれえことなんですよ(笑)。じゃあどれくらい手先に神経を集中できるかと思って、カラス口一ミリのなかに十本線が引けるかどうかをやってみた。いくらやっても七本ぐらいでいっぱいになっちゃう。でもね、やり始めて三年目の春に、一回だけ完璧に十本引けたんです。十本引けたのは、後にも先にもその一回だけ。
文字の世界は深い。五年間で骨身に沁みてそう思いました。集中の度合いも半端じゃないですからね。もう他の何も見えなくなるし、思考力がどんどん増大してあらゆることが頭の中をかけめぐる。その面白さは他の仕事では体験できなかったと思います。

これが文字であるわけがない(笑)っていうぐらいびっくりしました。

タイポグラフィの修行をひととおり終えたのは一九六四年、東京オリンピックの年です。亀倉雄策さんのオリンピックのポスターやシンボルマークが脚光を浴びた。その一翼を担っていたライトパブリシティに僕も入社したんです。それからは、言葉と写真が溶け合う「広告爆弾」みたいなものを作りたい、そんな気持ちで広告の仕事を始めました。
その後独立してから、CFの撮影隊を率いて日中国交回復後の中国に入ったんです。僕が選ばれたのは、広告の世界で中国を旅した経験のある唯一の人間だからで、なぜ中国に旅したかと言えば、もうひとつ僕がずっと夢中になってやっていた卓球です。自分でつくった卓球チーム「東京キングコング」は海外遠征で中国各地を転戦してましたから。そこで「書」に出会った。各地の博物館でたくさん書を見てまわりましたし、桂林の巨大な岩に書かれた落款のような赤い漢字も見た。中国に何度も足を運んだおかげで、僕は奥行きの深い文字の世界に再会したんです。
八七年には東京タイポディレクターズクラブを設立しました。最初のうちは広告に関わる人間で文字のデザインを追究したい連中の集まりだったのが、やっぱり文字の持つ威力というか、国際展まで開かれる組織に発展してしまった。世界中から文字が集まってくるんです。九〇年に「熱いアジアのタイポグラフィ展」というのをやった時にも、二十二種類のアジアの文字が集まった。「あ」という文字を選んで拡大して展示してみると、その中には民族の知恵や民族が持っている肉体の動きが現れているのがわかる。その時に出会ったのが東巴(トンパ)文字です。最初はこれが文字であるわけがない(笑)っていうぐらいびっくりしましたね。

トンパ文字を求めて標高二千四百メートルの旅へ。

当時、京都大学の図書館館長をされていた言語学者の西田龍雄博士が『生きている象形文字』という本を30年以上前に出版されていて、そこでトンパ文字を紹介しているんです。西田先生は本のなかで「私は残念ながらこの文字が生息している麗江には行ったことがない」と書いている。僕は思わずそこに赤線を引きました。それじゃあというんで、何人かを集めて「文字を探す旅」を企画し、中国政府に申請したんです。そうしたら、「とんでもない。文字を探すというのはスパイ行為。少数民族友好団ならば許可する」と。準備を整えて西田先生に連絡しました。「御同行願えますか」と聞いたら、即答で「行く」とおっしゃる。「学校はどうされますか?」「休みます」って、これも即答(笑)。
今は飛行機が通じるようになったけど、最初の旅では昆明まで行った後はずっと陸路でした。行けども行けども、たどり着かない。途中からは運転手が道を間違えたに違いないってみんなが確信するほど遠かった。昆明を出発して丸二日目の夜、やっと雲南省麗江に着いたんです。標高は二千四百メートル。何もないところです。静かでした。 トンパ文字はその地域の納西(ナシ)族が信仰する原始宗教トンパ教の経典に書かれています。文字の数は千五百ぐらいあって、経典にいたっては二万冊ある。黒龍潭公園のなかの東巴文化研究所では経典の翻訳が現在も進んでいます。しかし経典は海外への持ち出しが政府によって禁止されている。写真にも撮っちゃいけない。遣唐使に較べれば楽なもんだと自分に言い聞かせて、僕は麗江に通いました。
その間に書家の石川九楊さんに書を習い始めました。楷書をマスターしたいと思ったんです。今から百年ぐらい前に甲骨文字が発見されて、これが紀元前十五世紀の殷王朝の象形文字であろうということがわかった。御存知のとおり、今使われている漢字のルーツです。白川静先生の世界ですね。甲骨文字はやがて篆書、隷書、草書、行書と変遷していって、最後にたどりついたのが楷書です。じゃあ楷書は何かと言えば、やっぱり誰にでも読みやすい文字ということでしょう。デザイナーに求められるのも、誰でも読めること、伝わることだから、タイポグラフィを考えるデザイナーにとって、楷書をマスターするのは避けては通れない道じゃないですか。僕の後ろに掛かっているのは西安で買ってきた拓本です。この二千文字を十日間、夕方から深夜の時間帯に毎日筆写したんです。人間の集中力ってこの拓本で言えば四行ぐらいで切れちゃうんですよ。書き損じればそれまでの何行かはすべてパーになる。夜が更けてくると孤独感が増して、こんなこと今やっているの、世界中でオレだけじゃないかという気になってくる(笑)。現代の書家っていうと、なんかサササッ、バーッと勢いで書いてハイおしまいって感じでしょう。でも自由書っていうのは進歩がないというか、自己模倣で終わっちゃう危険性があるんですよ。本当に新しいものを創り出すには、楷書のような堅いものを通過したほうがいいと思う。
麗江に行き来するうちにトンパ文字の展覧会をやらないかと中国政府から招聘されたんですよ。そこで僕は、経典にあるトンパ文字に楷書の筆法、楷書の精神を加えて書き直してみたんです。それまでに培ったデッサン力とデザイン力、八年かけた楷書力も自分の筆先にこめて。展覧会は大成功でした。トンパの人たちも絶賛してくれた。20030404_8.jpg新しいトンパ文字を特別に作ってもよい許可を与える、という証明書までもらいましたよ(笑)。トンパ文字の中でもたとえば水という文字の素晴らしさ。水の流れるなかに石があると水はこんな風に流れるだろうと。かたちばかりじゃなく自然のなかに神が宿っているという考え方そのものが文字にも現れていると思いますし、このわかりやすさと視覚性は、漢字を使い続けてきた日本人に強くアピールするデザインなんだと思いますね。

書を捨てれば日本は滅びる。子どもも夢中になったトンパ文字。

原宿の美術館で「アート一日小学校」というのをやらせてもらったんです。そこで小学生二十人に、トンパ文字を教えてみたんですよ。筆と硯を用意して、ためしに五文字ぐらい教えたら、見よう見まねであっという間にマスターした。僕が用意した千枚の紙は瞬く間になくなりました。子どもたちは理屈抜きに楽しんでくれたんです。石川九楊さんは「書を捨てれば日本は滅びる」っておっしゃるけれど、子どもたちの反応を見ているとなるほどそうかもしれないと思います。今はパソコンの記号化された無色な文字ばかり見せられているでしょう。筆の中にはマウスよりも遥かにすごいものがたくさん隠れていますからね。
筆を使うのは慣れないことだし、最初はめんどくさくて思い通りにならないものなんだけど、途中から夢中になってやっていた。砂にしみ込む水みたいに、トンパ文字が子どもたちの中のどこかに吸収されていくようでした。「千と千尋の神隠し」に日本人が吸い寄せられたのと同じじゃないですか? 今の子どものなかに何か足りないものがあるからだと僕は感じましたね。

Q.浅葉さんは、お洒落やファッションをどう考えていますか?

裕次郎の全盛時代、高校を卒業する頃にね、映画俳優にならないかってスカウトされたんですよ。何か派手好きのオーラみたいなものが出てたんでしょうね(笑)。どうしようかなあと迷う部分もあったんだけど、からだはそんなにデカくないし、デザイナーやイラストレーターにどうしてもなりたかったから、映画俳優の道には進まなかった。派手好きは、ボーイスカウトをやってたこともあるかな。ボーイスカウトの格好って結構派手じゃないですか。その影響もあったかもしれない。
ライトパブリシティに入った頃から、ファッションメーカーとの接触も俄然増えたので、どういうものを着たら自分が目立つかというのもからだで覚えたんじゃないかと思います。広告の世界は当時から派手でした。ただでさえ本人が派手好きだったわけだから、派手さの厚みも増してくる。
でもね、好みの色はいわゆる派手な色じゃない。ブルーと薄いベージュなんです。僕は神奈川の金沢文庫生まれだから、京浜急行に乗って東京に通ったんですけど、冬になると車窓から海が真っ青に見えてね。海の手前には枯れたカヤがベージュ色で折り重なっている。海とカヤのコンビネーションがすごくきれいで、僕のなかにその色が刷り込まれたと思う。 色は大切に使わなければならないものだと思います。色をベタベタ使えばカラフルじゃないって思いますね。特に書道は白と黒の世界でしょう。そこにワンポイント赤い落款が押されているだけ。これが何か絶妙にきれいじゃないですか。色は使いようだし、お洒落もそういうものじゃないでしょうかね。

20030404_9.jpgAsabaKatsumi
1940年神奈川県生まれ
19歳から佐藤敬之輔のもとでタイポグラフィの修行を重ねる。64年ライトパブリシティに入社。
75年浅葉克巳デザイン室を設立。以後、アートディレクターとして広告デザインの第一線で活躍。87年東京タイポディレクターズクラブを設立。本格的なタイポグラフィの運動を再開。90年には中国少数民族ナシ族の象形文字「トンパ文字」による新作を発表した。日宣美特選、毎日デザイン賞、東京ADC賞、紫綬褒章など受賞歴多数。卓球をこよなく愛し、現役の卓球選手で認定六段、日本卓球協会評議員もつとめる。

「考える人」2003年春号
(文/取材:新潮社編集部、撮影:広瀬達郎)
詳しくは、新潮社のホームページをご覧下さい