プレスリリース

2003年01月24日

デザインは人なり。 タナカノリユキ ~「考える人」2003年冬号〜

~「考える人」2003年冬号(新潮社)より転載~

タナカノリユキ

ユニクロ・クリエイティブ・ディレクター

サッカー、ロック喫茶ジャズ喫茶、映画館の三角形

20030124_1.jpg中学生ぐらいまで乗り物酔いがひどかったんです。だから家族旅行なんかにも行かないで留守番しながら好きな絵を描いてるような子でした。親が用意してくれたクラフト紙を山積みにして毎日ものすごい量を描いてた。
万博の時、自分の絵が子供パビリオンに展示されたんです。国立第四小学校の代表みたいな感じでね。親に泣きながら頼んだんだけど、金はかかるし、こんな長蛇の列に並んでお前どうすんだってテレビを見ながら言われて、結局連れて行ってもらえなかった。
草野球とか缶蹴り、虫採りのような普通の遊びもしましたよ。中学、高校とサッカー部で、高校の時には百メートルを十一秒台で走ってた。駄目だったのは体操。だから三半規管を揺さぶる回転系が駄目だったんじゃないかな(笑)。
都立三鷹高校時代はサッカー、ロック喫茶ジャズ喫茶、映画館をぐるぐる回ってました。サッカーは東京の国体選抜の合宿にも出たし、三年の夏に引退もせず年の暮れまで続けてた。だから進路を考えはじめたのも受験直前。中学時代の担任の美術の先生に勧められたこともあって、美大に行こうと決めたんですけど、美大は専門的に実技のトレーニングをしなければならない事を知って、浪人することにしたんです。
浪人中は美術専門の学校に通いましたよ。もう一浪は当たり前の世界で、三浪、四浪もいる。みんなうまいんです。完全に出遅れてた。コンプレックスのかたまりでした。でも夏を過ぎたあたりに意外といけるかもしれないって思うようになった。わりと集中するタイプなんで、人の二倍描いてみようって自宅にも石膏像を買い、朝は八時から予備校で描き、家でも夜中の三時、四時まで描いた。
夏からの追い上げで一気に突っ走って一浪で芸大には合格できたんです。でも入ってみたらやっぱり学校はシステムなんですよ。全然自由じゃない。英語もあるし体育はあるし、つまんない課題ばっかりやらされる。なんだこれ、普通の高校とあんまり違わないじゃないかって。とたんに大学は行かなくなって、ライブに行ったり映画見に行ったりして課題だけ三日で仕上げて提出する。プロセスは見せないし出席率も悪いから教授には評判悪かった。それでもその作品が参考作品になったりして、評価も高かったので、結構いい気になっていた。

創っては壊して、描いては悩んでという毎日

三年になったとき状況がガラッと変った。福田繁雄さん佐藤晃一さん、それから亡くなった有元利夫さんなど第一線で活躍しているデザイナーや作家の方々が先生になったんです。そこでケチョンケチョンにやられた。こんなのつくってどうすんの? どっかで見たようなものばっかりじゃないか。君がやる必要なんかないよ。もう徹底的にズタズタにされました。
オリジナリティのある作品、独特の世界、そして「自分とは?」。もう、めちゃくちゃ悩みました。そういった作品が創れなければこれからやっていけない。
高校の時から決めていたことがひとつだけあるんです。自分は組織に入って勤めていくよりも、フリーでやっていきたいということでした。美大に行こうと思ったのもそのためで、何のクリエイターになるかということよりも、個人でやっていけることの方が重要だった。だから、この問題は自分にとって生き死に近いことであって、社会に出るまでにそういったものがなければやっていけないと思ってました。 大学院にいこうと思ったのも、そのための時間稼ぎのようなものです。創っては壊して、描いては悩んでという毎日だった。学校に行くとすぐ友達と飲みに行ってしまうから、家から一歩も出ずに、ずーっと描きつづけていた。佐藤晃一さんのアドバイスで、模写を初めたのもそのころです。ただ自分が好きなように描くことから、一回それを否定して、他人になりきるということ。それも質感や色で楽しむといったことをせずに、ストイックにモノクロの表現の模写をひとりの作家だけでなく、何人もの作家でこころみたんです。
模写をしていくと、好きだったその作品も自分の描きたい筆跡と違うことがわかってくるんですね。それでも模写していくと、最後は好きということから、拒絶反応がたまっていくという感じ。それでも徹底してやったら爆発するような反動が一気に来て、パーッと自分らしい描きたい絵が出てきた。その作品を大学院の前期の講評会にもっていったんです。そうしたら、「これは、いい。この調子でやればいい」と言ってもらえて。自分でも見たことのない感じだったんで、後はそれをどんどんひろげていった。創ることが面白くなったのもこの頃からですね。それらの作品を公募展に出品し始めたら大きな賞を続けてもらい、仕事も入るようになった。大学院修了と同時に、賞金で恵比寿に仕事場を借りてフリーでやり始めました。

ファッションではなく、志のある「発明」としてのデザインを

広告の仕事はずっとやらなかった。なんか自分が壊れちゃうんじゃないかって思ったから。それは妙なきっかけだったんです。ピーター・グリーナウェイが僕の作品集を見て、彼の映画「枕草子」のアートディレクションをやってほしいと依頼してきた。初めて映像の現場に触れたんですね。刺戟的で面白い仕事でした。自分でも映像をやってみたいと思って16ミリのフィルムのカメラを買ってプライヴェートに映像を撮り始めたんです。
そんな時、ナイキの広告をワールドワイドでやっているクリエイティブ・エージェンシーが声をかけてきた。Just do it.のキャンペーンのクリエイティブコンペに参加しないかということなんですね。 その頃のナイキはスパイク・リーとかゴダールなんかにもCMを撮らせていたんです。広告をやってない人間の方がブレイクスルーできる何か新しい大胆なものを出してくれるんじゃないかと思っていたみたいで。最初は広告はあんまりやってみる気はしなかったけど、ナイキならクリエイティブなものを発揮しても大丈夫かもしれないという感触があったんでやってみたんです。そうしたら自分の案が採用になった。広告の仕事はそれからです。
ユニクロの仕事は最初、なんかダサいんじゃないかって思ったんです(笑)。でも柳井さんや玉塚さんに会って話してみたら、これまでの広告業界のお約束になんか全然しばられてない。企業としても革新的なことをやろうとしているとわかったし、なにしろトップの人とフリーでディスカッションできるのが珍しかった。
広告やりはじめて思ったのは、CMの世界って暗黙の決まりごとのようなものが多いってこと。音楽は? ナレーションは? サウンドロゴは? セリフは? ナイキ以降の仕事でさんざん言われた。決まりごとが揃ってないと不安なんでしょうねきっと。ユニクロの広告の仕事ではそんな既成概念をゼロにしてやりとおすことができたわけです。
ユニクロの広告も商品も、あるフォーマットのなかでのディテールや上っ面をテクニックだけでいじっていくんじゃなくて、志や精神から出て来る大きなものがデザインなんだ、という考え方が重要なんだと思います。デザインっていうのはいままでの仕組みそのものを変えていけるパワーを持っているものだし、そういったことはある種の発明みたいなもので、それこそジーンズやボタンダウンのシャツだって最初は誰かの発明だったはずですよね、それがやがて新しい定番になっていく。トレンドだけを追っかけててもしようがない。着る、ということの仕組み、構造を徹底して考えることから究極のかたちを開発する。それぐらいの志と実験精神がなければ、本当に長生きするベーシックなものなんて生まれないでしょう。だからやれることはまだまだいっぱいあるんじゃないかって思ってます。

20030124_2.jpg 1959年東京生まれ
85年JACA展グランプリ受賞。
TDC賞、ADC賞など受賞多数。
表現活動は多岐にわたり、内外の美術館などで展覧会、ワークショップ、レクチャーのアートワークとともに、近年は芸術と科学の関わりをテーマにした生命科学の学者とのコラボレーションにも取り組む。
1999年から、ユニクロのクリエイティブ・ディレクター/アート・ディレクターとしてブランディングに関わっている。

「考える人」2003年冬号 (文/取材:新潮社編集部、撮影:深沢次郎)
詳しくは、新潮社のホームページをご覧下さい。